歴史物語

世界史を変えたもう一つの9月11日――1973年チリ・クーデターとアジェンデの最期

もう一つの「9・11」――チリが忘れない1973年

多くの人にとって「9月11日」といえば、2001年の同時多発テロを思い浮かべるだろう。しかし、それより28年前、南米チリでも同じ日付に、歴史の流れを根本から変える出来事が起きていた。1973年9月11日、民主的に選出されたサルバドール・アジェンデ大統領を倒す軍事クーデターである。インターネットもSNSも存在しない時代だったにもかかわらず、この衝撃的なニュースは瞬く間に世界中へ伝わり、人々を戦慄させた。ベルリンの壁崩壊やソ連崩壊と並び、20世紀の歩みに消すことのできない刻印を残した出来事の一つなのである。

ピノチェト独裁の始まり

クーデターを主導したのはアウグスト・ピノチェト陸軍総司令官だった。彼はアジェンデ政権を打倒すると、17年間に及ぶ軍事独裁政権を樹立する。政敵への恣意的な逮捕、行方不明(失踪)処理、拷問、殺害――その支配は、ラテンアメリカ史上最も血なまぐさいものの一つとなった。

2008年に機密指定を解かれた米国政府文書によれば、リチャード・ニクソン大統領、国家安全保障担当補佐官ヘンリー・キッシンジャー、そしてCIAは、国務省の反対を押し切って、クーデターに先立つ段階からアジェンデ打倒計画を推し進めていたことが明らかになっている。

経済を「悲鳴を上げさせる」ために

実は、クーデター以前から米国の介入は始まっていた。アジェンデが大統領に選出されると、ニクソンはCIAに対し、チリ経済を「悲鳴を上げさせよ」と命じた。ワシントンにとって好ましくない改革路線を掲げる新政権を、経済的混乱によって転覆させる狙いである。

大規模企業への妨害工作、資本と投資家の国外流出の誘導、対外債務の拡大……。さらに米国はチリの債務再交渉を阻止した。1972年には、伝統的に米国の士官学校で教育を受けた将校たちからなるチリ軍へ流れ込む軍事援助こそが、米国から入る唯一の資金となっていた。この経済破壊工作は3年間にわたって続けられたのである。

国連演説――多国籍企業への警告

1972年12月、アジェンデは国連総会の場で、米国による攻撃のみならず、自国政府を経済的に締め上げる多国籍企業への無統制状態をも告発した。

「今われわれが直面しているのは、巨大多国籍企業と国民国家との間の正面衝突です。後者の政治的・経済的・軍事的な基本的意思決定は、いかなる国家にも属さない世界的組織によって妨害されています。こうした活動について、彼らはどの政府にも責任を負わず、共通の利益を代表する議会や機関の監督も受けていないのです」――チリの大統領はこう強調した。

最期の放送

1973年9月11日午前9時すぎ、アジェンデはラジオ・マガジャネスのマイクを通じて、国民に向けた5回の短い放送のうち、最後となる運命の演説を行った。

「チリ万歳、人民万歳、労働者万歳……これこそ私の心からの言葉であり、私の犠牲が無駄にならないことを確信している。少なくとも、偽善と臆病、裏切りを裁く道徳的な教訓となることを確信している」

その声には終末を悟った響きが滲んでいたが、勇気と、国民に遺すべきメッセージを残そうという意志は、最後まで失われなかった。

モネダ宮殿での死

アジェンデの死の状況については、今日なお完全な解明がなされていない。大統領府(モネダ宮殿)にとどまった彼は、公式見解によれば、キューバのフィデル・カストロから贈られたAK-47を使って自ら命を絶ったという。クーデター側の手に落ちることを拒んだのだ。一方で、宮殿防衛の中でクーデター派に殺害されたとする見方も根強く残っている。

国立競技場――暗黒の収容所

クーデター直後の数か月間、サンティアゴの国立競技場は、独裁政権に反対した市民が拷問され、処刑された凄惨な収容所と化した。犠牲者の正確な数は今も不明のままであり、この悲劇は20世紀で最も暗く、最も論争的な出来事の一つとして記憶されている。

分断された社会と重い遺産

チリ右翼によるピノチェト一派の免罪の試みは現在まで決して途絶えておらず、社会は依然として分裂したままである。独裁政権時代に要職を務めた政治家の多くが、その後もチリ政治の表舞台で活動を続けてきた。ピノチェト元外相のセルヒオ・フェルナンデス、内相を務めたアンドレス・チャドウィックなどがその例であり、ほかにも多数いる。ミチェル・バチェレイ政権がこの重い遺産の処理に苦慮したことからも、あの時代が国土に刻んだ傷跡の深さがうかがい知れる。過去の清算に向けた真実究明の取り組みは今日でも困難を極めているのだ。

「シカゴ・ボーイズ」と新自由主義の実験場

ピノチェト独裁の狙いは、単なる政権転覆にとどまらなかった。それは、後に海外へ輸出可能な経済開発モデルを実装するための「実験場」として機能することが意図されていた。超保守派の経済学者ミルトン・フリードマンが育てた「シカゴ・ボーイズ」と呼ばれるエコノミスト集団が主導した新自由主義モデルである。この計画には、反対者をあらゆる手段で排除するための情報機関の関与が指摘されており、チリで始まった手法はアルゼンチン、ブラジル、ボリビア、パラグアイ、ウルグアイへと広がっていった(いわゆる「コンドル作戦」)。

社会保障や労働者の権利を根こそぎ削ぎ落とすこの政策により、チリは外国企業の需要に奉仕する形で「近代化」され、生産手段は外資の手に渡っていった。1988年の国民投票で政権の是非が問われた際、それでも約44%の国民がピノチェトの続投に賛成票を投じた。この数字こそ、独裁下で定着した経済システムの影響力を物語っている。シカゴ・ボーイズの設計図は、今日でもさまざまな変奏を伴って実践されており、近年ではベネズエラへの経済的締め上げなどがその例として挙げられる。

今も生き続ける象徴

それでもなお、アジェンデの犠牲はラテンアメリカ大陸における闘争の象徴であり続けている。この地域の国が、ごく短期間でも独自の経験を積み、自らの統治と経済のモデルを適用し、「大きな隣人」ワシントンの干渉なしに独立した民主的政策を描こうとするとき、いかに大きな代償を払わねばならないか――ラテンアメリカを自らの生命圏とみなす米国の影響力を前に、アジェンデの最期は、その教訓として今も語り継がれているのである。