アテネの中心部、オモニア地区のカニンゴス広場近くには「グラッドストン通り(Gladstonos)」が走っている。この通りが一躍有名になったのは、2018年9月21日にザック・コストプーロス(Zak Kostopoulos)氏がこの路上で殺害された事件だった。そして近年、特に土曜日に行われたザック追悼マーチ以降、通りの改名をめぐる活発な議論が巻き起こっている。
注目すべきは、追悼マーチの後、活動家たちが「グラッドストン通り」と書かれた標識の真下に、「ザッキー・オー通り(Zackie Oh Street)」と書かれた青い標識を設置したことだ。数日後、アテネ市議会におけるSYRIZA会派の代表ナソス・イリオプーロス(Nasos Iliopoulos)氏がFacebookへの投稿を通じて、通りを正式にザック・コストプーロスの名に改めるよう提案した。これには反発も起き、同氏は極右勢力から命に関わる脅迫を受ける事態となった。
そこで本記事では、この改名論争を機に、そもそもこの通りの名はどこから来たのか、ウィリアム・グラッドストンとはどのような人物だったのかを振り返ってみたい。
ウィリアム・グラッドストンの生涯
ウィリアム・グラッドストン(William Ewart Gladstone、1809年12月29日〜1898年5月19日)は、イギリス自由党の傑出した政治家であり、イギリス首相を務めた人物である。卓越した弁舌の才と親ギリシャ主義(フィレレニズム)で知られ、王立協会および王立統計協会のフェローにも選ばれていた。
1834年に主計次官に就任し、1835年には植民地省政務次官に転じた。この時期、彼は植民地における奴隷制廃止を繰り返し訴えている。1862年にはパーマストン政権下で大蔵大臣として、イオニア諸島のギリシャへの編入に賛成票を投じた。1867年にはラッセル卿の後を継いで自由党党首となり、1868年には自身初の内閣を組閣。この時期に国教会と国家の分離に関する法律の成立を実現させた。
1873年、自らの法案が否決されたことを受けて辞任するが、政治への関心を失うことはなく、ベンジャミン・ディズレーリの親トルコ政策に対して強く攻撃を加え続けた。1880年の総選挙では過半数を獲得して勝利し、二度目の首相に就任。その結果、ベルリン会議への派遣が実現し、この会議は最終的に1881年、テッサリア地方のギリシャ帰属をもたらした。
1886年にはアイルランド完全自治を掲げて三度目の組閣を行ったが、関連法案は議会で否決され、1892年の総選挙によって四度目の首相に就任した。自治法案は庶民院では可決されたものの、貴族院で否決された。こうしてグラッドストンは1893年、ついに政界を引退し、晩年はホラティウスの『頌歌』など古典作品の翻訳に打ち込んだ。
グラッドストンとギリシャ
近代ギリシャ史において、ウィリアム・グラッドストンの名は、イオニア諸島のギリシャ編入とキプロス問題の両方に深く結びついている。とりわけ後者については、死去の1年前にあたる1897年、次のように告白している。
「私は思う――もし私の短い人生の終わりまでに、このギリシャの島(キプロス)の住民が、友好的な解決を経て、兄弟であるギリシャ国王のもとに統合される幸運に恵まれたなら、私はどれほどの満足を感じるだろうか、と。」
また、植民地大臣在任中、キプロスのギリシャ人学校がギリシャ語による教育を続けることを認めた決定も重要である。当時、「我々が他の民族にしたように、ギリシャ人に我々の言語を押しつけるようなことはする価値がない」という助言があったにもかかわらず、彼はそれを退けたのである。
オスマン帝国のキリスト教徒保護
グラッドストンは、イギリスが介入してオスマン帝国のキリスト教徒少数派を保護し、さらには迫害の責任者を裁くべきだという政治的見解を採用した、最初期のイギリス大物政治家の一人である。この政策は、クリミア戦争を終結させた1856年のパリ条約をはじめとする国際条約に基づくものだった。彼は東方正教会を国民的・宗教的な統合体として高く評価し、1821年のギリシャ独立革命に強い着想を得ていた。
1876年5月、オスマン帝国当局による数千人のブルガリア人キリスト教徒の虐殺が起きると、グラッドストンはイギリス政府に対し、保護者かつ裁定者として積極的な役割を果たすよう呼びかけた。その主張は「ブルガリアの惨劇と東方問題(Bulgarian Horrors and the Question of the East)」と題するパンフレットを通じて広く知られるところとなった。グラッドストンの運動は、英国国教会を含むイギリス各界に大きな関心を呼び、トルコ国内のアルメニア人、アッシリア人、ギリシャ正教徒を支援するさまざまな団体が結成された。
ギリシャでの顕彰
偉大な親ギリシャ主義者への感謝の印として、全ギリシャ規模の募金活動により、アテネ国立カポディストリア大学の入口に彼の銅像が建立された。また、冒頭で述べたアテネ中心部の通りをはじめ、ギリシャ各地の都市やキプロスにも、彼の名を冠した通りが存在している。