歴史物語

スエトニウス・パウリヌスはいかにしてブーディカの大軍を打ち破ったのか

圧倒的な兵力差に立たされたローマ総督

西暦60年から61年にかけて、イケニ族の女王ブーディカが率いる反乱軍は、ローマの支配に対する怒りを爆発させました。彼女の軍勢はカムロドゥヌム(現コルチェスター)、ロンディニウム(現ロンドン)、ウェルラミウム(現セント・オールバンズ)の主要三都市を次々と焼き払い、当時の記録ではその兵力は10万、ひいては20万を超えたとも伝えられています。

一方、ブリタンニア総督ガイウス・スエトニウス・パウリヌスが動員できたのは、第14軍団ゲミナ・マルティア・ウィクトリクスと第20軍団の分遣隊、さらに補助兵を合わせても約1万人でした。文字通り十倍以上の敵を前にしたことになります。

決戦の地を選ぶ卓越した戦略眼

西方のモナ島(アングルシー島)での遠征から急ぎ引き返したパウリヌスは、ロンディニウムの防衛を諦め、あえて都市を見捨てて決戦の場を自ら選ぶという大胆な判断を下しました。選ばれたのはワトリング・ストリート沿いの谷あいで、背後に深い森を控え、開けた平原へと続く入口が狭い地形でした。

この陣地選びこそが勝敗を分けました。両側面を森と斜面が覆うため、数にものを言わせた包囲戦術が使えないブーディカ軍は、正面からの攻撃に絞られることになったのです。

規律が生んだローマ軍団の戦闘力

パウリヌスは歩兵を中央に密集隊形で配し、騎兵を両翼に展開しました。合図とともに一斉に投げられたピラ(重投槍)は突撃する敵の最前列を粉砕し、続いて楔状の密集隊形が盾と短剣を連動させながら敵陣深く押し込んでいきました。

訓練を積んだローマ兵は前線を交代しながら戦うため、長時間の戦闘でも秩序を保てました。対照的にブーディカ軍は、後方に戦車の列を並べていたため、敗走が始まると自ら退路を断たれる形となり、逃げ場を失った兵は殺戮の餌食となりました。

決着とその後

歴史家タキトゥスの記述によれば、この戦いでブリタンニア側の犠牲者は約8万人に上ったといいます。女王ブーディカは捕縛を避け、毒をあおって自害したと伝えられています。

この「ワトリング・ストリートの戦い」と呼ばれる決戦の正確な場所は今も確定していませんが、有力視されているのが現在のウォリックシャー州マンセター村付近の野原です。勝利によって反乱を鎮圧したパウリヌスでしたが、その後の過酷な報復政策への批判を受け、ほどなくして総督の任を離れることになりました。それでも、少数の規律ある軍団が地形と戦術を駆使して大軍を破ったこの戦いは、古代史上屈指の見事な防衛戦として語り継がれています。