ギリシャ・メッセニア地方のヤロヴァ・ビーチは、単なる美しい海岸ではありません。紀元前425年、ペロポネソス戦争の帰趨を左右した「ピロスの戦い」の舞台であり、スパルタの名将ヴラシダスが失った盾にまつわる逸話が今も語り継がれる、ギリシャで最も歴史的なビーチです。
背景:ペロポネソス戦争とピロス上陸作戦
紀元前425年、ペロポネソス戦争のさなか。疫病の大流行と指導者ペリクレスの死によって疲弊していたアテナイは、将軍デモステネスの提案を受け、ペロポネソス半島を迂回してイオニア海へと艦隊を進めました。
目指したのは、当時まだ無人だったコリュファシオンの丘(現在のピロス地方パレオカストロ)です。ここに守備隊を置いて要塞化すれば、スパルタ領内への脅威となる拠点になると考えたのです。丘へ唯一緩やかにアクセスできる南東端の斜面――現在のヤロヴァ・ビーチに面した場所――には、急ごしらえの壁が築かれました。
スパルタ軍の対応と包囲網
スパルタ(ラケダイモン)側は当初対応に手間取りましたが、この砦がヘイロタイ(被支配民)の避難先になりかねないと判断すると、状況の危機的性質を認識し、デモステネスの仮設要塞を速やかに奪還することを決断します。
スパルタの重装歩兵はスファクテリア島に上陸し、ヤロヴァ・ビーチ側からアテナイの防壁への陸攻めが命じられました。同時に、外洋側からアテナイ陣地の南への上陸も試みられましたが、岩礁がちで近づきがたい海岸線のため、こちらは失敗に終わっています。
ヴラシダスの突撃と「盾」の逸話
スパルタ艦隊が海上からピロス攻略を図った際、将軍ヴラシダスは三段櫂船の船長や操舵手たちに対し、「船材を温存してアテナイ人の要塞建設と維持を許すくらいなら、船を岩に叩きつけてでも岸へ乗り上げろ」と檄を飛ばしました。
そしてヴラシダス自身、自らの操舵手に命じて船を浜へ打ち上げさせます。船から降りて上陸を試みた瞬間、彼はアテナイ兵に迎撃され、体のあちこちに傷を負い、その場で気絶して倒れました。倒れた拍子に盾が海へ滑り落ち、波に運ばれて岸へ打ち上げられたといいます。
アテナイ人はこの盾を回収し、敵の攻撃を撃退した功績を讃える戦勝記念碑(トロフィー)に据えました。今日では、アテネのアッタロスの柱廊(ストア)博物館に、ヴラシダスのものとされる盾が展示されています。
スファクテリア島の戦い――「不死身の神話」の崩壊
アテナイの援軍到着を恐れたラケダイモン人は、スファクテリア島の南北二つの水路に三段櫂船を配置し、ピロス湾の入り口を封鎖し始めます。しかし、アテナイ海軍が適切なタイミングで到着すると、海戦はアテナイの決定的な勝利に終わり、スファクテリア島に上陸していたスパルタ重装歩兵の退路は完全に断たれました。
降伏交渉が不調に終わった後、クレオン率いる増援が到着すると、アテナイ人はスファクテリア島の約300名の名門スパルタ人に無条件降伏を飲ませることに成功します。捕虜たちはアテナイへ送られ、公衆の目の前で拘束されました。55年前のテルモピュライでレオニダス王と300人が見せた犠牲によって形づくられてきた「スパルタ人は決して降伏しない」という神話は、ここに崩れ去ったのです。
ニキアスの和約へ
コリュファシオン要塞に居座るアテナイ軍の存在は、離反したヘイロタイの避難所であると同時に、メッセニア方面への襲撃拠点ともなり、スパルタにとって深刻な脅威であり続けました。さらに国内では、スファクテリア島の捕虜の釈放を求める政治的圧力が高まります。
こうした事情が重なり、ラケダイモン人はアテナイとの間で紀元前422〜421年にニキアスの和約を締結。その条項に基づき、ピロスのコリュファシオンにあったアテナイの要塞はラケダイモン人へ引き渡されることになりました。
現地の位置情報(GPS座標):36.950725, 21.657983