歴史物語

ツタンカーメンの妻は誰?王妃アンケセナーメンの素顔と謎めいた生涯

ツタンカーメンの妻は誰だったのか

古代エジプト第18王朝のファラオとして世界的に有名なツタンカーメン。その妻となったのは、王妃アンケセナーメン(Ankhesenamun)です。彼女の名は元々「アテン神に生きる者」を意味していましたが、アメン信仰の復興に伴い、「アメンに生きる者」という意味の現在の名へと改められました。

名門王家に生まれた王女

アンケセナーメンは、アメン神殿の権力に対抗してアテン信仰を推し進めたファラオアクエンアテンと、絶世の美女として名高い王妃ネフェルティティの娘として生まれました。誕生当初の名は「アンケセンパーテン」といいました。

そして彼女は、夫となるツタンカーメンの異母妹にあたります。当時のエジプト王家では、王権の純粋性を守るために近親婚が行われることが珍しくなかったのです。

若き王と王妃の結婚生活

ツタンカーメンはおよそ9歳で即位した少年王であり、アンケセナーメンもまた10代前半で彼のもとに嫁ぎました。二人は共同統治者として、また夫婦として王宮での暮らしを送りました。

しかしながら、夫妻の間に生まれた二人の娘は、いずれも死産あるいは出生直後に亡くなりました。この二人の胎児のミイラは、1922年に発見されたツタンカーメンの墓(王家の谷・KV62)から見つかっており、若き両親が背負った悲しみを今に伝えています。

夫の死後、謎に包まれた最期

ツタンカーメンが19歳前後で急逝すると、アンケセナーメンの足取りは史料から急速に消えていきます。ヒッタイト側の記録によれば、彼女は「エジプトの臣下と結婚するのは望まない」としてヒッタイト王子に手紙を送り、新しい夫として迎えようとしたと伝えられます。ところが王子はエジプトへ向かう途中で殺害され、この計画は実現しませんでした。

その後、老大臣アイと再婚した可能性も指摘されていますが、決定的な証拠は見つかっていません。長らく「ツタンカーメンの死後まもなく亡くなり、王家の谷の王墓に共に埋葬された」と考えられてきましたが、彼女自身のミイラや墓は今日まで発見されておらず、その最期は古代史最大級の謎の一つとして残されています。

まとめ

アンケセナーメンは、偉大な父アクエンアテンと母ネフェルティティのもとに生まれ、異母兄妹の関係にあるツタンカーメンの妻となった王妃です。二人の娘との死別、夫の早世、そして激動の政変の中で歴史から消えたその姿は、3300年以上の時を経てもなお、多くの人々の想像力をかき立ててやみません。