襲撃の失敗とブラウンの逮捕
1859年10月16日、奴隷制廃止を掲げる急進的活動家ジョン・ブラウンは、仲間たちとともにバージニア州ハーパーズ・フェリー(現在のウェストバージニア州)にある連邦武器庫を襲撃しました。しかし計画は失敗に終わり、ブラウンはロバート・E・リー大佐率いるアメリカ海兵隊によって制圧され、負傷しながらも捕らえられました。
ちなみにリー大佐は、その後南北戦争において南部連合軍の総司令官として名を馳せることになります。
チャールズタウンでの裁判
捕らえられたブラウンと生き残った支持者たちは、バージニア州チャールズタウンの裁判所で審理を受けました。その結果、ブラウンは反逆罪、殺人罪、さらに奴隷反乱の扇動の罪で有罪とされます。法廷でも彼は堂々とした態度を崩さず、その発言の数々は北部の奴隷制廃止論者たちに強い印象を与えました。
1859年11月2日に死刑判決を受けたブラウンは、同年12月2日にチャールズタウンにて絞首刑に処されました。処刑を前に彼は、「この罪深い国の罪は、血によってしか贖われない」と記した遺書を残しており、その覚悟は多くの人々の心を打ちました。
処刑がもたらした歴史的影響
ブラウンの死は、北部では「殉教者」として称賛される一方、南部では恐怖と憤りを呼び起こしました。彼の処刑は南北間の対立を一層激化させ、わずか1年余り後に勃発する南北戦争の前兆となったと広く見なされています。