ルイ・リエル(1844年〜1885年)は、歴史の中で一時期「悪役」「反逆者」として描かれた人物ですが、実際には決して悪役ではありません。彼は先住民とヨーロッパ系入植者の末裔であるメティス(Métis)という民族の権利のために生涯を捧げた指導者であり、今日ではメティスの人々をはじめ、多くのカナダ人から英雄として敬愛されています。
それでも「悪役」と呼ばれた理由
リエルが「悪役」のレッテルを貼られた背景には、19世紀カナダの歴史的な出来事が関係しています。
1. 赤川(レッド・リバー)抵抗運動
1869年、ハドソン湾会社が保有していた広大な西部の土地が、メティスの同意なしにカナダ政府へ譲渡されようとしたことを受け、リエルは臨時政府を組織し、抵抗運動を指導しました。この過程で、反対派のイギリス系入植者トーマス・スコットを処刑したことが、オンタリオを中心とする英語圏社会で激しい非難を浴びる原因となりました。
2. 北西抵抗運動と処刑
その後も政府がメティスの要求を無視し続けたため、1885年にリエルはサスカチュワンで再び蜂起します。しかし「北西抵抗運動」は軍事力の前に鎮圧され、リエルは国家反逆罪で裁かれ、同年11月16日にレジーナで絞首刑に処されました。当時の英語圏メディアは彼を「国を脅かす敵」として報じ、これが「悪役」イメージの定着につながりました。
リエルの真の姿 ― メティスの守護者
リエルの行動の根底にあったのは、自民族の生存と尊厳を守りたいという願いでした。メティスは、フランス系毛皮商人と先住民女性の子孫として独自の言語(ミチフ語)や文化を育んできた民族ですが、カナダの西方拡大の波の中で、土地も権利も奪われつつありました。
リエルは武力に訴える前にも、あくまで交渉による解決を目指してきました。その成果の一つが1870年のマニトバ法です。これによりマニトバ州がカナダ連邦に加盟し、メティスの土地権利やフランス語教育の権利が法的に保障されました。このことから、リエルは「マニトバの建国者」とも称されています。
現代における再評価
20世紀後半以降、リエルの評価は大きく転換しました。彼はもはや「反逆者」ではなく、少数派の権利を声高に訴えた先駆者であり、多文化共生というカナダの理念を先取りした人物として捉えられています。
- マニトバ州では、毎年2月の第3月曜日が「ルイ・リエル・デー」という祝日となっています。
- 首都オタワの国会議事堂近くには、1996年にリエルの銅像が建立されました。
- リエルは生涯にわたり連邦議会議員に選出されながらも、一度も議席に着くことを許されませんでした。これは当時の政治体制がいかに彼を受け入れなかったかを物語っています。
歴史はしばしば勝者の手によって書かれます。リエルが「悪役」とされた時代は、実は彼が守ろうとした人々の声がまだ社会に届いていなかった時代でもあります。今日、私たちが彼を英雄として記憶するのは、正義とは何かを問い直す機会を、リエルが後世に残してくれたからなのです。