1859年10月、奴隷制廃止を掲げた急進的改革者ジョン・ブラウンが起こしたハーパーズ・フェリー襲撃は、アメリカ史における重大な転換点となりました。しかし、この武装蜂起は計画通りには進まず、悲劇的な結末を迎えることになります。
襲撃の失敗とブラウンの逮捕
ブラウンはバージニア州ハーパーズ・フェリーにある連邦武器庫を占拠し、奴隷たちに武器を渡して大規模な反乱を起こそうと企てました。しかし作戦は早々に頓挫し、当時大佐だったロバート・E・リーの指揮下にあるアメリカ海兵隊によって鎮圧されました。負傷しながらも捕らえられたブラウンは、まもなく裁判にかけられることになります。
反逆罪による処刑
ブラウンはバージニア州に対する反逆罪および殺人罪、扇動罪などで有罪判決を受け、1859年12月2日に絞首刑に処されました。刑に臨むまでの彼の毅然とした態度や獄中で残した言葉は、北部の廃止論者たちに強い衝撃と感銘を与え、彼は一躍「殉教者」として称えられるようになりました。
南北戦争への道
この事件の影響は計り知れませんでした。北部ではブラウンが英雄視される一方、南部では奴隷反乱への恐怖が急速に高まり、地域間(セクショナル)の対立は決定的に深刻化しました。こうして生まれた亀裂は修復されることなく、わずか1年余り後の1861年、アメリカ南北戦争の勃発へとつながっていきます。
ハーパーズ・フェリー襲撃そのものは軍事的には完全な失敗でしたが、奴隷制をめぐる国家の矛盾を暴き、内戦への流れを加速させた点で、歴史的に極めて大きな意味を持つ出来事といえます。