キャサリン・ハワードは、イングランド王ヘンリー8世の5番目の妃として迎えられた若い女性です。しかし、王妃としての日々は短く、1542年2月13日、ロンドン塔の塔内緑地(タワー・グリーン)において大逆罪により斬首されました。当時、彼女はまだ10代後半から20歳前後の若さだったとされています。
処刑の理由は「大逆罪」
キャサリンが処刑された公式の罪名は大逆罪(ハイ・トレゾン)でした。当時のイングランドでは、王妃の不貞は単なる私的な不倫ではなく、王位継承の血統を汚す恐れがあるため、「国家に対する裏切り」すなわち大逆罪とみなされました。彼女は姦通、さらには国王ヘンリー8世に対する陰謀への関与を理由に有罪とされたのです。
トマス・カルペッパーとの関係
王妃としての在任期間中、キャサリンは複数の男性との不貞関係を疑われていました。なかでも決定的だったのが、廷臣であり国王の側近でもあったトマス・カルペッパーとの長期にわたる関係です。この一件の責任を問われたカルペッパーは1541年12月10日に処刑され、キャサリン自身もその直後に逮捕されました。
逮捕後の自白
逮捕された当初、キャサリンは非常に協力的だったと伝えられています。彼女はカルペッパーとの姦通関係を認めたうえで、国王との結婚以前にも他の恋人たちがいたことも認めました。一方で、自分が大逆罪を犯したということについては、最後まで否認し続けました。
裁判と死刑判決
キャサリンに係る審理は1541年11月28日から始まりました。彼女は大逆罪で有罪とされ、同年12月10日に死刑を宣告されます。刑の執行は翌年へと持ち越され、1542年2月13日、ロンドン塔の塔内緑地で斬首刑が執行されました。
宮廷を揺るがした処刑
キャサリンの処刑は、イングランド宮廷に大きな衝撃を与える一大スキャンダルとなりました。王国で最も高い地位にあるはずの王妃が、不貞と大逆罪によって断頭台に立ったことは王室の威信を著しく損ない、以降の宮廷では同様の事態を二度と起こさないための改革や警戒が強く求められるようになりました。
まとめ
キャサリン・ハワードの死は、権力と結婚が密接に結びついていたテューダー朝宮廷の過酷な現実を象徴する出来事です。王の妻となることは栄光であると同時に、一歩間違えれば命を落としかねない危険な立場でもあったのです。彼女の悲劇は、ヘンリー8世の6人の妻の中でも特に痛ましいものとして、今日まで語り継がれています。