ボストン虐殺への道のり:主要な出来事の流れ
ボストン虐殺は、アメリカ独立革命の序章となった歴史的な事件です。まずは、悲劇に至るまでの主な経緯を時系列で確認しましょう。
1768年秋:イギリス軍のボストン到着
イギリス議会が一連の課税政策「タウンゼンド諸法」を施行したことを受け、その執行を担うイギリス軍がボストンに派遣されました。市民の生活圏に軍隊が常駐するようになったことで、住民と兵士の間の緊張は日増しに高まっていきました。
1770年3月5日:事件の発生
冬の終わりの夜、ボストンの街角で起きた市民とイギリス兵の衝突は発砲事件へとエスカレートし、5人の市民が命を落としました。この事件は後に「ボストン虐殺」と呼ばれるようになります。
1770年3月5日の詳細な経過
1. 高まる緊張
その冬を通じて、ボストンの中心部への軍隊駐留に対する住民の反発は強まる一方でした。兵士たちが休暇中に労働者と仕事を奪い合う場面もあり、対立は日常茶飯事となっていたのです。
2. 前兆となった小競り合い
3月5日の夕方、地元の労働者が集まるロープ工場で、イギリス兵と職人の徒弟との間で口論が発生しました。この争いは周囲の人々を巻き込みながら拡大し、街全体へと波及していきます。
3. 群衆の集結
噂は瞬く間に広まり、関税徴収事務所(カスタムハウス)前に立つ哨戒兵のもとへ、憤慨した市民が次々と集まり始めました。
4. 挑発と罵倒
群衆は兵士に向かって侮辱や嘲笑、挑発的な言葉を浴びせました。ただし、最初のやり取りがどこまで暴力的だったのかについては、史料によって見解が分かれています。
5. 衝突のエスカレート
緊張が極限に達すると、群衆の中から雪玉や様々な物を兵士に投げつける者が出始めました。
6. 発砲
飛び交う物体に身の危険を感じた一人の兵士がマスケット銃を発砲すると、それが引き金となり、他の兵士も次々と撃ち始めました。なお、最初の一弾を誰が放ったのかについては諸説あり、多くの記録ではヒュー・モンゴメリー二等兵とされています。
7. 混乱とパニック
発砲はわずか1分ほどで収まりましたが、この短い時間に5人の市民が路上で命を落とし、さらに数人が負傷しました。犠牲者の一人には、元奴隷の船員クリスパス・アタックスが含まれており、彼は「独立革命最初の犠牲者」として広く知られています。
8. 裁判とその結末
事件後、ボストンは騒然となり、犠牲者のための正義と責任追及を求める声が高まりました。しかし当局の対応は必ずしも適切とは言えず、市民と兵士の双方をなだめようとしたことが、かえって対立を深刻化させました。
事件に関与した兵士たちは法廷に立たされましたが、後の第2代アメリカ大統領ジョン・アダムズが弁護を担当するなど、複雑な法的対応と当時の社会情勢の中で、最終的に有罪となったのはわずか2名でした。2人は過失致死罪で有罪となったものの、親指への烙印押捺という軽い処分で済まされています。
ボストン虐殺が残した歴史的意義
ボストン虐殺は、イギリスの支配に対する植民地人の不満の象徴となり、自治への願いを一層強固なものにしました。ポール・リビアが制作した事件を描いた版画が広く出回り、反英世論を煽るプロパガンダとして大きな役割を果たした点も見逃せません。
こうして事件は、植民地と本国イギリスの亀裂を決定的に深め、わずか5年後の1775年に勃発するアメリカ独立戦争への道を開いていくことになったのです。