アジアの歴史

斉明天皇と鬼と信仰

前回の「鬼物語」の続きです。

『日本書紀』の斉明天皇の項目に登場する鬼は、「恨み」や「悪鬼」といった「情熱的なエネルギー」である可能性が高いと述べました。前回は『日本書紀』の記述を紹介しましたが、平安時代末期に書かれた『扶桑略記』という文書にも斉明天皇と鬼との関係についての記述があるので、その文書を紹介します。やりながら検討してみます。

扶桑略記の内容は何ですか?

斉明元年(655年)の行事として

さらに661年の夏

※物部氏の謎、消された王権より引用。

以上のことが『扶桑略記』に書かれている。 『日本書紀』にはぼかして書かれていなかったタタリを引き起こした人物の名前が記されている。直接「鬼」という言葉で書かれてはいませんが、『日本書紀』の「鬼」と同じものと考えられます。

この曽我豊浦大臣です。 蘇我蝦夷(そがのえみし)を指す。書籍によっては蘇我入鹿とされている場合もありますが、基本的には蘇我蝦夷のことのようです。

なぜ日本書紀のタタリをぼかして書いたのでしょうか?

日本書紀について書いた記事や内容も取り上げますが、一番考えられるのは時の権力者の正当性を高めるという線だと思います。

『日本書紀』では持統天皇までの時代が記されていますが天智天皇(39代)、持統天皇(41代)、 中臣鎌足です。 あまり悪いことは書かれていません。

天武天皇 『日本書紀』の編纂を指示したのは誰か(41代)も草薙剣(あめのむらくもの剣)信仰によって滅ぼされたと書かれているのに。草薙剣の記述は、その後の歴史書における桓武天皇(737-806)の記述と酷似している(桓武天皇の場合は十手剣のタタリとされる)。彼らの共通点は、彼らが正式な皇太子ではなかったことであり、それは彼らの批判を暗示しているようだ。

『日本書紀』自体の編纂のピークが奈良時代の寛政期(717年~723年)であったため天武天皇の影響力は弱まっていたのです。 。ポイントも可能です。 元正皇后 寄進期間中 (44 年代) の治世中、 彼の父は天武天皇と持統天皇の息子である 草壁皇子 でした。 。 、母は天智天皇の第4 皇女元明皇后です。 天智とも天武とも考えられる43代の人物です。

持統天皇は天智天皇の血統を優先したのでしょうか?天智天皇がその方針であることは不思議ではありませんが、天智天皇を悪く書かない根拠としては弱いように思えます。

では、元正天皇の指示がなければ誰がやったのでしょうか?そのような説明は可能でしたか?思えば藤原不比等ですね。 も編纂に大きく関わった。私がキーマンになるのは当然だと思います。

藤原不比等の半生について

藤原不比等 中臣鎌足の息子。父は11歳で亡くなり、13歳で壬申の乱に参加した。壬申の乱には功罪はなかったが、近江王朝(大友皇子=弘文天皇の時代)に近親者がおり、 以来田辺文大隅がいた。 私は田辺不比等(たなべのふひとおおすみ)という人の下に住んでいます。そんな中で、藤原不比等は下級役人から立ち上がらざるを得なくなった。

藤原不比等の名前が初めて文献に登場するのは689年2月で、彼は裁判官に任命されました。 1年後、690年に天武天皇が崩御し、持統天皇が即位します。この時、不比等は32歳でした。

時は遡り、682年に持統天皇の子である草壁皇子が皇太子となりますが、7年後の689年4月に28歳の若さで亡くなります。この間に、藤原不比等がいたと言われています。草壁皇子の朝政の顧問のような立場。不比等と草壁皇子は4歳だったそうです。

そして697年、 娘のが誕生します。 文武天皇 (第42代持統天皇の孫)入ってしっかりと足元を固めさせていただきます。おそらくこの頃、 藤原不比等の後妻となる縣犬養三千代でしょう。 光明湖 後の藤原家にとって重要な人物です。 701 年生まれ。

阿形犬養三千代 光の王​​子 です。 草壁皇子と安芸皇女(後の元明皇后)の間に生まれる。 (後の文武天皇)の乳母だったとされる。彼女が仲介したかどうかは分かりませんが、娘の宮子と文武天皇を引き合わせるにあたって、何らかの接点があったのではないかと推測されます。

さらに光王子だけでなく首王子も登場。 文武天皇と宮子の間に生まれた。乳母(=後の聖武天皇)としても活躍することになる。そのため不比等は三千代を通じても皇室との関係を深め、近世に至るまで1200年以上にわたり多くの貴族を輩出することとなった。

持統天皇と藤原不比等の関係

天武天皇崩御の年である686年、それと関連すると思われる出来事が起こる。 大津皇子の異変 は。

大津皇子 「私は反逆しようとしている」と大津皇子の親友で天智天皇の息子である川島皇子は言った。 。からの密告によって自殺に追い込まれた出来事である。この反乱自体の秘密は定かではなく、不審な点もあり、陰謀によって仕組まれたというのが真相である。

大津皇子 天武天皇の第三皇子で、人柄も良く信頼も厚い人材です。唯一の欠点は裏付けがないことです。その点では草壁皇子ですね。 当時の皇后は渕野聡(=持統天皇)でしょうか。 、宇野さらら)と比べてもかなりのアドバンテージを持っていた(彼女の能力に関しては歴史書などで褒められたものがないのは言うまでもない)。当然、この場合には持統天皇の我が子を即位させたいという意志が働いたと考えられる。

現時点では天智天皇と藤原不比等との関係は見当たりませんが、この「邪魔者を消す」という出来事には、天智天皇と中臣鎌足、そして黒幕との「乙巳の変」が含まれています。その出来事と重なって見えるのは気のせいではない。結局、彼らもそれぞれ天智天皇と中臣鎌足の子であり、その後、持統天皇が藤原不比等を利用したという事実がある。

たとえ相性の悪い事件でなかったとしても、「親が親なら……」という目で見られたかもしれない。この事件をきっかけにアプローチした可能性はあると思います。

概要

結局、「中兄皇子と中臣鎌足にタタリがいた」ということになると、藤原不比等自身も怪しいのです。同様に、持統天皇がタタリを持ったとき、「なぜ藤原不比等は無事なのか?」と心配したようです。

乙巳の変の時、中兄皇子と中臣鎌足の背後に何者かがいたのではないか?実際に斉明天皇が糸を引いたのも不思議ではないので、個人的には使ったのではないかと思っています。

それまで目玉だった「曽我氏を潰す」という出来事……ましてや「曽我氏の政策は正しかったかもしれない」という状況ですから、曽我氏の無念さが際立ちます。埋葬される側の人間は、その無念を疫病のような不可思議な出来事と結びつけ、なおさら恐れただろう。その恐怖が『日本書紀』に「鬼」を登場させたのだと思います。