アジアの歴史

タージ・マハルは本当に「愛の象徴」なのか?――シャー・ジャハーンの実像と「テージョ・マハーラーヤ」説を検証する

インド・アグラに建つ白亜の霊廟タージ・マハルは、ムガール皇帝シャー・ジャハーンが亡き妃ムムターズ・マハルを偲んで建てた「永遠の愛の記念碑」として世界中で親しまれています。しかし、この定説に対しては、歴史研究者の間で古くから疑問や異論が提起されてきました。本稿では、ヨーロッパ人旅行者の記録などに基づいて語られる皇帝の私生活と、タージ・マハルの起源をめぐる論争について紹介します。

ムムターズ・マハルの死と、伝えられる皇帝の姿

1631年、シャー・ジャハーンの第二夫人アルジュマンド・バヌー・ベーグム(通称ムムターズ・マハル)は、14人目の子の出産中にブルハーンプルでこの世を去りました。一部の言い伝えによれば、その最期の瞬間、皇帝は同地で名を馳せていた15歳の踊り子に心を奪われて側に居合わせず、妃の父アースィフ・ハーンが事態を収拾させてようやく駆けつけたとされます。また、皇帝には数千人の側室がいたとも伝えられ、そのうちアクバラーバーディー・ベーグムとカンダハーリー・ベーグムには正妃の格が与えられていたといいます。

ヨーロッパ人旅行者が残した記録

ムガール宮廷を訪れたフランス人医師フランソワ・ベルニエは、長女ジャハーナラー・ベーグムについて「非常に美しい女性であった」と記し、父帝との関係にまつわる噂に触れています。それによれば、皇帝はこの関係を正当化するために法学者(ムッラー)の見解を持ち出したともいいます。一方、歴史家K.S.ラールは、これらはアウラングゼーブ側が流したデマにすぎないと反論しており、史料の信憑性をめぐっては意見が分かれています。

また、イタリア人旅行者ニッコロ・マヌッチは、「シャー・ジャハーンにとっての関心事は、快楽を満たすための女性探しだったかのようだ」と述べ、宮廷で催された「ミーナー・バザール(美の市)」について言及しています。これはアクバル帝の時代から続いたとされる市場で、身分を問わず美しい女性だけが出入りを許され、捕虜として連れてこられたヒンドゥー教徒の女性たちが売買されたとも伝えられ、主な買い手は皇帝と皇族でした。

晩年と最期

晩年、病に倒れたシャー・ジャハーンは、息子アウラングゼーブによってアーグラ城へ幽閉されました。1666年1月22日、74歳でこの世を去ります。一説には、強壮剤の常用が死因に関わっていたともいわれます。

「テージョ・マハーラーヤ」説とは

タージ・マハルをめぐる論争で最も物議を醸しているのが、P・N・オーク(Purushottam Nagesh Oak)が唱えた「テージョ・マハーラーヤ(Tejo Mahalaya)」説です。オークは著書『Taj Mahal is Tejo Mahalaya』の中で、タージ・マハルはシャー・ジャハーンの建造物ではなく、本来はシヴァ神を祀るヒンドゥー寺院「テージョ・マハーラーヤ」であり、マハーラージャ・マン・シングの祖先によって建てられたものであると主張しました。スティーブン・ナップらも独自の考察からこの説を支持する見解を発表しています。

主流の歴史学・考古学の見解

しかし、インド考古調査局(ASI)をはじめとする専門機関や大多数の歴史学者は、宮廷記録や建設費用の帳簿、同時代のヨーロッパ人旅行者の目撃記録など、膨大な一次史料をもとに、タージ・マハルが1632年から1653年頃にかけてシャー・ジャハーンの命で建設された霊廟であると結論づけており、インドの裁判所もオーク説を退けてきました。一方で、「愛の記念碑」というイメージ自体が後世のロマン化によるものだとして、より冷静な再検討を求める声があることも事実です。

おわりに

タージ・マハルをめぐる議論には、確かな史料に基づく研究と、特定のイデオロギーや共同体感情に由来する主張が入り混じっています。諸説に触れる際は、一次史料や学術的な検証に基づいて冷静に判断することが大切です。