明治維新を成し遂げた新政府にとって、欧米列強と対等な関係を築くことは喫緊の課題でした。ここでは、幕末から引き継いだ不平等条約の改正への取り組みをはじめ、アジア諸国への外交展開、そして西南戦争に至るまでの明治初期の国際問題を整理して解説します。
最大の外交課題は不平等条約の改正
明治政府にとって最も重要な外交課題となったのが、幕末に欧米列強と結ばれた不平等条約の改正でした。治外法権や関税自主権の欠如といった不利な条件を解消し、日本を対等な独立国として国際社会に迎え入れることが急務とされていたのです。
そこで1871年(明治4年)、岩倉具視を正使とし、木戸孝允・大久保利通・伊藤博文らを副使とする岩倉使節団がアメリカ・ヨーロッパ諸国へ派遣されました。
残念ながら、条約改正をめぐる交渉は決裂してしまいます。しかし使節団は、西洋各国における近代的な政治制度や産業の発展ぶりを詳細に視察することができました。この経験は、帰国後の殖産興業をはじめとする近代化政策に大きな影響を与えることになります。
それでも政府は粘り強く交渉を続け、1878年(明治11年)にはアメリカとの間で関税自主権の一部回復(税則改正)を実現させます。ただし、イギリスなどヨーロッパ諸国がこれに反対したため、本格的な条約改正には至りませんでした。
アジアへの拡大――清・琉球・台湾
一方その頃、明治政府はアジア諸国に対しても開国を迫っていきます。
1871年(明治4年)には清(中国)との間に日清修好条規を締結しました。これは、日本が外国と初めて対等な立場で結んだ条約です。
また、琉球王国を日本の領土とする方針のもと、1872年(明治5年)には琉球藩を設置して、琉球国王の尚泰を藩王としました。これに強く反対した清は激しく抗議するものの、この措置を承認しませんでした。
そうした中、台湾で琉球の人々が現地の住民に殺害される事件が発生します。清が責任を取る姿勢を見せなかったため対応は難航しましたが、政府内の軍人や士族から強硬論が唱えられたこともあり、1874年(明治7年)に政府は台湾へ出兵します(台湾出兵)。
この件に関して清は、イギリスの仲介もあって日本の出兵の正当性を認め、賠償金を支払うことになりました。
さらに1879年(明治12年)には琉球藩を廃止して沖縄県を設置し(琉球処分)、沖縄は正式に日本の領土へと組み込まれます。
ただし、土地制度・税制・地方制度などには旧来の慣行が残され、衆議院議員選挙が初めて実施されたのは1912年(大正元年)になってからでした。本土との経済格差も大きく、県民の所得は低かったため、出稼ぎや移住などによって人口が流出したとも言われています。
朝鮮問題と征韓論
当初から開国を求めて交渉を続けてきたのが朝鮮(李氏朝鮮)です。しかし朝鮮は当時鎖国政策をとっていたうえ、日本の交渉の態度にも好感を持たず、応じようとしませんでした。
そこで西郷隆盛や板垣退助らは、武力によってでも朝鮮を開国させるべきだと主張し、いわゆる征韓論を唱えます。しかし、使節団として欧米から帰国した大久保利通らがこれに強く反対しました。その結果、征韓論を主張した西郷ら参議は政府を去ることになります(明治六年の政変)。
日朝関係が動いたのは1875年(明治8年)の江華島事件です。通告なしに江華島付近を測量していた日本の軍艦が朝鮮側から砲撃を受け、これを機に日本は島を占拠しました。まさに、かつてペリーが日本に対して行ったのと同じ手法です。
日本はこの威力を背景に朝鮮へ開国と不平等条約を迫り、日朝修好条規(江華条約)の調印を実現させました。なお、このような強引な手法については、西郷隆盛が反対していたとも伝えられています。
その後、政府はロシアとの間で樺太・千島交換条約(1875年)を締結します。樺太(サハリン)における権利のすべてをロシアへ譲る代わりに、千島列島全域を獲得しました。翌年には小笠原諸島の領有をアメリカに承認させて、領土を確定しています。
西郷隆盛最後の反乱――西南戦争
征韓論を唱えて下野した参議たちは、武力で訴える派と言論で訴える派とに分かれていきました。どちらの勢力も政府にとっては反乱になりかねない存在であるため、政府は内務省や警視庁を設置して警戒に当たります。
言論の道を選んだ板垣退助は、のちに自由民権運動の指導者となっていきます。
一方、残された武断派の中で最初に動いたのが江藤新平です。1874年(明治7年)、佐賀県で士族を率いて反乱(佐賀の乱)を起こしますが、反乱は2か月足らずで鎮圧され、江藤は処刑されました。
四民平等によって特権を奪われた士族にとって最後の打撃となったのが、秩禄処分と廃刀令(いずれも1876年)でした。これを契機に士族の反乱が各地で勃発し、熊本では神風連の乱が起こるなど、地租の負担に苦しむ農民が加わる例も見られるほど混乱が広がりました。
そして、下野後に鹿児島へ戻っていた西郷隆盛を盟主として、私学校の生徒たちを中心とする薩摩士族による最大の反乱が起こります。政府は戊辰戦争以来最大の内戦に直面しましたが、半年余りの戦いの末にこれを鎮圧しました。
この西南戦争(1877年)において、徴兵制で編成された新政府軍が士族の精鋭に十分対抗しうる力を示したことで、武士による大規模な武装反乱はついに収束することになったのです。