アジアの歴史

封建制から中央集権国家へ――明治新政府の誕生

1867年(慶応3年)12月、王政復古の大号令が発せられ、明治新政府が誕生しました。

成立当初の新政府は、土佐・越前・尾張など公議政体派の雄藩を中心とする連立政権でした。しかし、戊辰戦争で武力討幕派である薩長同盟が勝利すると、政局の主導権は薩長の手に移ることになります。

以後、廃藩置県が断行されるまで、新政府は薩長土肥(薩摩・長州・土佐・肥前)を中心とする連合政権として運営されていきました。

明治新政府の誕生

こうして発足した新政府は、旧幕府勢力の抵抗を武力で鎮圧しながら、天皇を中心とした強力な求心力を持つ統一国家を築き、欧米列強に追いつくことを目標に掲げていました。

反対勢力への対応がひと段落すると、新政府は旧幕府直轄地や各藩の支配体制の整備に着手します。

1868年(明治元年)4月には政体書を発布して太政官制を確立し、地方行政は府・藩・県の三治制とされました。西日本では鳥羽・伏見の戦いから約1か月で平定が進んだこともあり、府県の設置は比較的順調に進みました。一方、東日本は平定が遅れたため、支配体制の確立は容易ではありませんでした。

そこで新政府は、関東地方を抑え込むため、江戸の地を東京と改称しました。

さらに同年10月には、即位したばかりの明治天皇が東京に入り、江戸城を東京城(皇居)としました。天皇として初めて関東の地に入ったことで、国民に対して天皇こそ最高権威であるという印象を強く与えることになりました。こうした新政府の努力の結果、関東地方においても府県の設置が成功裏に進められていきます。

1869年(明治2年)には、日本の首都が京都から東京へと移されました(東京奠都)。これにより天皇を朝廷の保守勢力から切り離すことに成功し、天皇を近代国家の君主として位置づけながら、近代化政策を本格的に推進していきました。

版籍奉還と廃藩置県

新政府の指導者たちは、大名による土地と人民の支配(版籍)を改革することを早くから構想していました。木戸孝允(長州)、大久保利通(薩摩)、板垣退助(土佐)、大隈重信(肥前)といった薩長土肥の実力者たちが協議し、各藩の藩主を説得した結果、まず薩長土肥の4藩が土地と人民を天皇に返上することを決めたのです。

これに続いて全国の藩主も呼応し、1869年(明治2年)6月に版籍奉還が実施されました。版籍奉還とは、旧藩主が保有していた土地と人民を天皇に返上することであり、封建的な支配と主従関係を否定し、新政府こそがすべての人民と土地の所有者であることを制度化して確認するものでした。

しかし現実には、旧藩主がそのまま知藩事(ちのはんじ)として留任したため、従来の領主支配の仕組みは消滅せず、新政府が目指す中央集権化にはほど遠い状態が続きました。

この状況を打開するため、新政府は密かに計画を進めます。

1871年(明治4年)、まず薩摩・長州・土佐の3藩から兵を集めて武装を整え、自らの軍事的基盤を固めました。

そして、この軍事力を背景として廃藩置県が断行されたのです。

その結果、260余りの藩は軍事力に屈する形で廃止され、県へと再編されました。直後には3府302県が設けられ、その後の統合を経て3府72県へと整理されていきます。

旧藩主は免官されて東京へ移住させられ、新たに設けられた県には中央政府から県令や参事が派遣され、地方行政を担当しました。

これら一連の徹底的な制度改革によって、封建的大名による支配は完全に終わりを告げ、ここに中央集権体制が確立されたのです。