明治後期、資本主義の発展に伴い、労働問題は次第に深刻さを増していきました。
明治30年代前半には製鉄業や鉄道業などで労働組合が結成され、労働争議が発生するようになりました。これに対抗するため、政府は1900年(明治33年)に労働者の団結を制限する治安警察法を公布します。
この法律によって、日本初の社会主義政党である社会民主党は、結成直後に禁止されてしまいました。
明治政府への不満の高まり
その後も社会主義者たちは、機関誌などを通じて反戦運動を展開するなどの活動を続けました。
日露戦争後になると労働争議は一層激化し、1906年(明治39年)には日本社会党が結成されますが、翌年には解散命令を受けています。
1908年(明治41年)には、第二次桂内閣が社会主義運動への弾圧を強めました。さらに1910年(明治43年)には、明治天皇暗殺計画を理由に多くの社会主義者が検挙されます。
これが大逆事件であり、翌年幸徳秋水ら12名が死刑判決を受けました。
その後、政府は警視庁に特別高等警察(特高警察)を設置し、社会主義運動への取り締まりを一段と強化していきます。
しかし、日露戦争後の慢性的な不況は払拭されず、労働者や農村の貧困はますます深刻になり、政府に対する不満は高まり続けました。また、財政の悪化を顧みない軍備拡張政策に対しては、言論界からの批判も強まっていきました。
明治天皇の崩御と大正時代の始まり
国民の不満が高まるなか、1912年(明治45年)に明治天皇が崩御し、大正時代が始まりました。
当時の内閣は、第二次西園寺公望内閣でした。
当時の日本の財政は、日露戦争の戦費負債に加え、1906年(明治39年)の鉄道国有化に伴う負債を抱えており、火の車状態でした。そのため国民に重税を課すことで財政難を乗り切ろうとしていましたが、重税に苦しむ農村部だけでなく、都市部からも減税を求める声が高まっていました。
国民の支持を背景に、政友会の西園寺内閣にとって行政整理と支出の抑制こそが重要な課題でした。しかし陸軍は、大陸進出のための予算確保が困難になるとして、師団2個の増設を強硬に要求します。
西園寺首相はこの要求を拒否しましたが、陸軍は猛反発します。
当時、陸軍大臣・海軍大臣は現役の武官でなければならないという規定がありました。そこで陸軍は陸相を辞任させ、後任を立てないことで内閣を機能不全に陥らせました。こうして第二次西園寺内閣は総辞職に追い込まれるのです。
第三次桂内閣の成立と第一次護憲運動
元老たちは次の内閣の人選に頭を悩ませましたが、結局桂太郎を首班とする第三次桂内閣が誕生します。しかし、これは世論を完全に無視した人事でした。
これに反発した立憲政友会の尾崎行雄や立憲国民党の犬養毅らを中心に、「憲法擁護」「閥族打破」を掲げた護憲運動(第一次護憲運動)が展開されることになります。
※憲法に基づいて政治を行うこと。
この運動は幅広い階層の支持を受け、瞬く間に全国へと広がりました。
国会周辺では暴動やデモが頻発するようになります。こうした情勢の中、議会では桂首相を批判する声が噴出し、ついに桂内閣は総辞職に追い込まれました。
このように憲政の常道を守ろうとする運動である第一次護憲運動によって桂内閣が総辞職に追い込まれた出来事は、大正政変と呼ばれています。
山本権兵衛内閣とシーメンス事件
大正政変によって内閣が倒れたあと、民衆は次の首相に「藩閥を打ち倒す」ことができる人物を期待していました。しかし、次の首相に就いたのは海軍の実力者山本権兵衛だったのです。
期待外れの人事でしたが、野党・政友会の原敬が反発を抑えて協力を約束します。
こうして、大多数の閣僚を政友会員が占める事実上の政友会内閣が誕生しました。
その結果、護憲運動が求めてきた改革が進められます。陸海軍大臣は現役の武官でなくてもよいこととされ、厳格すぎた官僚登用の条件も緩和されました。
山本内閣はこのように順調に見えましたが、ある事件が起こります。
それがシーメンス事件です。軍艦の購入をめぐって、海軍幹部がドイツ企業シーメンス社から賄賂を受け取っていたことが発覚したのです。
重税に苦しみながら買った軍艦の購入に際して賄賂が授受されていたことを知った民衆の怒りは、想像を絶するものでした。
政友会と対立していた立憲同志会は山本首相を攻撃し、倒閣運動を盛り上げます。内閣の基盤である政友会は山本を擁護しましたが、予算案が貴族院で否決され、山本内閣は総辞職することになりました。
第二次大隈重信内閣の成立
国民の運動が盛り上がるなか、次の首相を選ぶ元老たちは苦慮しました。
順当に行けば政友会総裁の原敬に資格がありましたが、政党政治を嫌う山県有朋がこれを拒否します。
そんな中、白羽の矢が立ったのは意外な人物でした。
当時76歳で政界を引退していた大隈重信です。大隈は明治維新の際に伊藤博文らとともに明治政府を牽引し、自由民権運動の英雄として立憲改進党を創設した人物でした。当時の立憲同志会や国民党は、その流れを汲む政党でした。
このような大隈は、明治十四年の政変(1881年)で政府を追われた経歴から「元老にはなれない」とされてきました。しかし一方で、現在の早稲田大学の創設者であり、国民から絶大な人気を集めるカリスマでもありました。
そこで山県有朋ら元老は、大隈を首相に据えることで国民の不信を払拭しようとしたのです。この人事により、大正政変の発端となった陸軍の師団2個増設問題も、大きな反対を受けずに可決されるという成果につながりました。
こうして成立した第二次大隈重信内閣のもとで、日本外交は世界の試練に直面することになります。
1914年、第一次世界大戦が勃発したのです……。