戦国大名の関心事は、合戦に勝って領土を広げることだけではありませんでした。
自らが治める領国と民を守り、繁栄させるために、内政や外交にも力を注いでいました。この記事では、戦国大名の出自を紹介しながら、将来を見据えた彼らの戦略について解説します。
戦国大名の誕生
室町幕府における地方統治は、幕府から任命された守護大名が担っていました。しかし、将軍の権威が落ちた応仁の乱以降、守護大名の権威もまた低下していきます。
そうした守護大名に代わって、各地で実力をつけたのが戦国大名でした。彼らは室町幕府という中央権力とは別個に、自らの力で領国を支配し、軍事行動も外交も自己判断で行いました。
戦国大名として名を馳せた武将の出自には、大きく分けて3つのパターンがあります。
- 守護大名 → 戦国大名
- 守護代 →(下剋上)→ 戦国大名
- 国人 →(下剋上)→ 戦国大名
戦国大名の先駆けとして有名なのは北条早雲(そううん)です。1493年(明応2年)、伊豆の堀越公方・足利茶々丸を討ち取って伊豆を奪取し、守護に任命されないまま同国を支配しました。
北条早雲
(1456年~1519年)
早雲を祖とする北条氏は、守護大名出身ではない新興の戦国大名として台頭し、豊臣秀吉による小田原征伐(1590年)まで命脈を保ちました。
北条氏のような成り上がりの戦国大名もあれば、元々守護大名だった家、守護代、国人など、出自はさまざまです。
守護大名から戦国大名へ
室町幕府から任命され、一国ないし数カ国を支配していたのが守護大名です。その権力基盤を独自に強化して戦国大名となったパターンで、代表格としては今川氏、武田氏、大友氏、島津氏などが挙げられます。
今川義元は駿河の守護大名で、寄親・寄子制度を確立して軍制改革を実施。遠江から三河へと領土を拡大し、戦国大名への道を歩みました。
守護代から戦国大名へ
多くの守護大名は京都に屋敷を構えて中央政界に関与していたため、家臣の中から代表者を選んで現地に派遣し、領国を管理させていました。これが守護代です。守護代の地位が世襲化して実質的な地方の支配者となり、戦国大名へと発展した例もあります。
越後の長尾氏(上杉氏)、越前の朝倉氏、尾張の織田氏、阿波の三好氏などがその代表です。
国人領主から戦国大名へ
国人領主は「国人」とも呼ばれ、鎌倉時代の地頭に相当する存在でした。国人たちは守護の支配から独立し、衰退した守護大名に代わって領土を接収していきます。
こうした下剋上によって、毛利氏、長宗我部氏、龍造寺氏、浅井氏などの戦国大名が誕生しました。
戦国大名の将来戦略
「戦国大名=天下統一」というイメージがありますが、天下統一が必ずしも戦国大名の最終目的だったわけではありません。大名たちはそれぞれの力量や置かれた状況に応じて、将来の青写真を描いていたのです。
戦国大名の国家戦略は、大きく次の4つに分けられます。
- 天下取り戦略
- 領土拡張戦略
- 体制順応戦略
- 家存続戦略
以下、それぞれの戦略の内容と、それを採用した代表的な武将を紹介します。
天下取り戦略
天下取り戦略を採った武将の代表といえば、やはり織田信長でしょう。1568年(永禄11年)、足利義昭の上洛に尽力します。
信長は岐阜城に入城して「天下布武」を掲げ、以後、天下取りを最終目標に戦い続けました。当時の「天下統一」は日本全国を直接支配することではなく、天皇の権威を利用して、朝廷のある京都を中心に天下へ号令することを意味していました。
ただし、天下取り戦略を唱えて成功した最初の人物は信長ではありません。将軍・足利義輝の時代に畿内の覇権を打ち立て、朝廷を意のままに動かした三好長慶も同じ手法を取り、信長より先に畿内を圧倒して天下に号令を発していました。
領土拡張戦略
天下取りの野心を持つ大名ばかりでなく、家臣に恩賞を与えることが目的の領土拡張もありました。自国を守れない君主は家臣の家臣に地位を脅かされる危険があるため、武力を誇示する意味もあったようです。
この領土拡張戦略を体現したのが、土佐国の長宗我部元親です。「四国の蓋になる」という言葉を掲げ、1585年(天正13年)に四国統一を達成しました。また甲斐国の武田信玄も「国を広げてこそ家臣に恩賞を与え、喜ばせることができる」と説き、武田家の目標は領土の最大化にありました。
実は、武田氏が最大の領土を誇ったのは、信玄の死後・勝頼の時代だということをご存じでしょうか。長篠の戦いの敗戦をきっかけに武田氏滅亡の引き金を引いたことで愚か者扱いされる節がありますが、実際には非常に有能な人物でした。
体制順応戦略
時の人に従い、その政権の下で出世することで家を存続させる戦略もあります。前田利家と蒲生氏郷がその代表です。織田信長の小姓として仕えた利家は、最終的に豊臣政権下で五大老の一人となり、加賀百万石の礎を築きました。
蒲生氏郷は信長の時代から秀吉に仕え、小田原攻めの後には会津42万石の大名へと栄進しています。
家存続戦略
武田氏や毛利氏のような大国なら領土拡張によって家を守れますが、小さな大名が自力で他国へ侵攻するのはリスクが大きすぎます。そこで、より強力な大名に従属することで領国の安泰を図りました。
こうした小大名にとっては侵略よりも自国の防衛こそが最優先であり、家の存続のためなら主君を変えることも、この時代ではむしろ普通のことでした。
藤堂高虎は浅井長政以来、七度にわたって主君を変え、関ヶ原の戦いの後には20万石の大名へと昇り詰めています。
「真田丸」でも有名な真田家は、もともと武田氏の家臣でしたが、織田信長に仕え、北条・徳川・上杉の間で巧みに立ち回りながら豊臣政権下で所領を安泰させました。関ヶ原の戦いでは、真田家を存続させるため父と息子が東軍と西軍に分かれて参陣し、どちらが勝っても真田家が残るように画策したのです。
以上のように、戦国大名たちは家を存続させるために状況を見極め、それぞれの手段で生き抜こうとしていました。しかし、関ヶ原の戦い以降の太平の世が訪れると、当初最も有力に見えた守護大名出身の戦国大名で残ったのは島津氏だけでした。この時代の下剋上の凄まじさが見て取れるでしょう。