アジアの歴史

塩野義製薬株式会社 初代 塩野義三郎の業績と歴史

大阪は商工業が盛んな都市として有名ですが、製薬産業も盛んなことはあまり知られていないと思います。

江戸時代、清国やオランダからの輸入薬を扱う薬種問屋がこの地に出店し、幕府公認の株仲間を形成しました。形成されたドラッグタウンは、近代における政府による西洋医学の導入において大きな役割を果たすことになる。

現在、国内初の新型コロナウイルスワクチン開発で話題になることが多い塩野義製薬は、中間報告の3回目の追加接種を想定した臨床試験の中間報告の結果、ファイザーワクチンと同等であると発表した。臨床試験。効果が確認できたと発表した。

そこで今回は、現塩野義製薬の初代塩野義三郎について書いてみたいと思います。

明治以降の医薬品の近代化

現在、 大阪では藤沢薬品工業株式会社、武田薬品工業株式会社、田辺製薬株式会社、森下仁丹、大日本除虫菊(金鳥) などが販売されています。 日本を代表する製薬会社の本社が集まっています。

塩野義製薬もその一つだ。

江戸時代には緒方洪庵が大阪で「適塾」を開き、志ある若者にその技術を惜しみなく伝え、医療・医学の基盤が整いました。福沢諭吉、橋本左内、大村益次郎などがこの塾に通ったと言われています。

しかし、洪庵は日本の伝統医学を教えました。明治時代になると医療の分野でも近代化することが望まれ、それが政府の政策でもありました。

日本でも世界最先端の技術を導入したいと考えており、医薬品卸売業者などがこれに応え、日本の医薬品の近代化に向けた研究開発・生産体制の確立を目指している。

塩野義製薬株式会社の創業者、塩野義三郎とはどのような人物だったのでしょうか。 ??

塩野ギサブローは麻薬の街、大阪に生まれる

1854 年 4 月 14 日 、 の塩野ギサブローさん。 薬種問屋が集まる大阪・道修町に、薬種商(後の塩野香料)を営む二代目塩野吉兵衛の三男として生まれる。

1870 年 また、二代目吉兵衛は長男の豊太郎に吉兵衛を名付けました。儀三郎は三代目 1878 の下で薬物治療について学びました。 。別宅に分離して独立することになります。

この頃は他店で丁稚奉公として商業を学ぶ経営者も多かったですが、実家で学んで独立できたのは幸運だったようです。

シオノギ製薬の始まりと歴史

医薬品卸売業者 大阪市道修町3-12 創業者【塩野義三郎商店】 ギサブロー ] は後です [ 塩野義製薬 】歴史が始まるまでは。

創業当時は和漢薬を扱う商いでしたが明治19 年に そして、西洋医学の普及を政府が主導する形で西洋医学の輸入販売が行われるようになりました。 始めましょう。

当時の西洋薬は神戸や横浜の外商経由で流通しており、貿易慣行に詳しくない薬種問屋は外商の高値で購入するしかなかった。

その結果、西洋薬は驚くほど高価になりました。

西洋医学は値段が高いので日本の医療の発展を妨げるわけにはいかないと考えた儀三郎は、英語が堪能な人材を招いて医薬品を直輸入する道を編み出し、庶民でも手が届くようになったそうです。 。価格を抑えて販売することに成功しています。

他の問屋も吉三郎のやり方を真似て直輸入を始めた。そこでギサブローは、他社との差別化を図るため、自社の創薬を目指すことを決意する。

二人の息子に支えられた塩野義製薬の創業期

1880 年 儀三郎は結婚し、正太郎と長次郎という二人の息子に恵まれた。

この息子たちは塩野義製薬です。 の発展に大きく貢献します。

長男の正太郎は明治39 年に阪神高速道路を卒業しました。 。営業職に就き始めました。アメリカ式の経営管理や統計機械、計算事務機械を導入するなど、伝統的な徒弟制度や住み込み制度を廃止し、経営の近代化に大きな役割を果たしました。

次男の長次郎は東京帝国大学薬学部薬学科を卒業し、塩野義製薬の医薬品事業に携わることになる。これは本格的な製薬研究です。 の始まりと言われています。

当時は塩野ギサブロー商店だった。 管理薬剤師は高須健一郎です。 , 大阪医科大学小児科主任医師。ドイツの医学書に制酸薬の処方が書いてあると聞きました。

それを知った長次郎は鷹巣の指導を受けることにした。

研究の末、胃腸薬の一種である制酸剤の試作を開始し、製品化に成功しました。

この制胃薬 [ アンタチジン ] 』は塩野ギサブロー商店が自社開発した記念すべき新薬第1弾です。現在盛んに行われている産学連携を早期に実施した点にも、塩野義製薬の先見の明が表れていると言える。

医薬品ビジネスの成功が軌道に乗り始める

アンタチジンの実用化を機に、ギサブローは新薬製造事業を本格的に拡大することを決意した。そこで、大阪府西成郡にある製薬工場【塩野製薬株式会社】 』を新築し、製薬会社として新たなスタートを切りました。

次男の長次郎は 1910 に塩野義製薬株式会社の取締役に就任しました。 しかし、原料を海外に依存していたため、化学薬品の輸入に押され苦戦し、経営はうまくいきませんでした。

そこで長次郎は、塩野義製薬は儲かる場所ではなく、将来の医薬品の発展に貢献する場所であると方針を転換する。当時ドイツ留学から帰国したばかりの近藤平三郎博士を顧問として招くことにした。

儀三郎の親密さと、近代医療の発展に対する自己犠牲の精神が、長次郎にこのような経営軽視を許したのかもしれない。長三郎の才能を強く信じていたとも言える。

熱心な研究の結果、このようにしてジギタリス製剤が商品化されたのは 1912 でした。 。 心臓病の新薬 デジタミン 」 として発売されます。

この頃、 1914 第一次世界大戦 外国医薬品の輸入が途絶え、製薬業界は苦戦を強いられた。しかし、 塩野義製薬の自社製品【デジタミン】 】戦時中は国産医薬品を積極的に取り入れたため、多くの人を救うことができました。

販売事業と医薬品事業を株式会社に統合

1919 年 第一次世界大戦後、塩野義製薬は本家である塩野義吉三郎商店と医薬品事業を行う塩野義製薬株式会社を合併し、さらなる発展を目指しました。 【株式会社塩野義商店 』を設立しました。

さらに、 1943 私たちは医薬品と [ シオノギ製薬株式会社 ] に事業を集中することを決定しました。 』と社名を変更しました。

塩野義製薬は、儀三郎とその長男・正太郎、次男・長次郎の個性と才能が融合し、製薬会社として発展してきました。ギサブローは 1920 です。 彼は一線を退き、監督として塩野義製薬の将来を見守っていた。

名は儀三郎から義和に改名され、正太郎は儀三郎の名を受け継いで二代目塩野義三郎となった。

ただし 1931 薬剤部の責任者だった長次郎が肺炎で急逝した。

その悲しみからか、義一(初代吉三郎)も同年12月、池田市の隠居所で大阪で医薬品の製造販売業に生涯を閉じた。彼は78歳でした。

古い薬種問屋から現代の製薬メーカーへと成長したその功績は、今も日本の医療の歴史に輝いています。

シオノギの社章と標準医薬品の由来

有名な [ セデス ] 戦後開発された塩野義製薬の。 ] と [ ポポン S 』は今や私たちにとって標準薬となっています。

第二次世界大戦後、塩野義製薬を含む多くの製薬工場が焼失しました。

そのため、まだ医薬品を出荷する準備ができていませんでしたが、二代目儀三郎は社員を集めて、 「むやみに泣いている場合ではない。これからは世界が我々のパートナーだ。我々はみな国際人だ。みんなでやりましょう」 と言いました。基準に達するために努力する 「インスピレーションを受けてそう言いました。

実際、同社はインフレや物価上昇などの混乱のさなかに倒産したようだ。

努力の末 1939 医療用医薬品としてスタートした鎮静剤「セデス」は日本でも発売され、「痛くなったらすぐセデス」というキャッチコピーが記憶に残っています。なお、セデスは鎮静剤を意味する英語(sedative)を基に読みやすく覚えやすい名前であることから、回文綴りの商品名「SEDES」となっております。

1953 当時、シオノギの最重要品目となりつつあったビタミン剤の分野で、総合ビタミン剤「ポポンS」を発売しました。 【ビタミン、ミネラル~、ポポンS~♪】のCMフレーズが聞こえてくるのは私だけでしょうか? ??

「ポポンS」の名前の由来は、ポポン(元気ややる気が活発という意味の活発な擬音)+SHIONOGIのSです。

シオノギの社章は、江戸時代に使われていた分銅に由来しています。

薬の重さを量る時の重さは【正確】【誠実】【信頼】 です。 。シオノギのシンボルであり、常に精度を追求するシオノギの想いを表しています。現在、世界中には数え切れないほどの医薬品が流通しており、安全な製品がドラッグストアで簡単に手に入るようになりました。

それを可能にしたのは、言うまでもなく江戸時代の大坂の薬売りたち、そして塩野義三郎らである。