はじめに
2020年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』では、向井理さんが足利義輝を演じることでも大きな話題となりました。室町幕府第13代将軍である足利義輝は、「剣豪将軍」と呼ばれた武芸の達人でありながら、松永久秀や三好三人衆によって命を落とした悲劇の将軍です。
1467年に勃発した応仁の乱は11年間も続き、乱の収束に失敗した将軍の権威は大きく失墜しました。代わりに力をつけたのは、幕府や各地の有力大名でした。父・義晴も将軍の権威回復に尽力しましたが、その道は戦いの連続でした。そして、その遺志を受け継いだのが第13代将軍・義輝なのです。
今回は、剣豪将軍として名高い足利義輝の生涯について、わかりやすくご紹介します。
足利義輝の誕生と将軍就任
1536年、第12代将軍・足利義晴の嫡男として誕生した義輝は、9代将軍・義尚以来となる将軍家直系の男子でした。
当時、将軍家は管領・細川氏との権力争いに敗れて京都を追われるなど、苦難の時代を迎えていました。1546年、わずか11歳の義輝は、父から将軍職を譲り受けます。
1548年には父・義晴と細川晴元が和解し、義輝は将軍として京都へ帰還します。
ところが、細川晴元と三好長慶の関係が悪化して争いが起こると、晴元に従った義輝父子は再び京都を追われることに。父・義晴は近江の地でこの世を去りました。
15歳となった義輝は三好氏と戦うことを決意しますが、1552年には一時的に和睦を結んで京都へ戻ります。その後も対立と和睦を繰り返し、近江の六角氏を頼って身を寄せる不安定な日々が続きました。
剣聖・塚原卜伝にも認められた剣豪将軍へ
父・義晴の代からの苦難を受け継いだ義輝は、武芸に励み己を鍛え抜きました。歴代の室町将軍の中でも際立って剣術に優れており、剣聖・塚原卜伝からもその腕前を認められたといいます。さらに一説には、剣聖・上泉信strong>上泉信綱から剣術を学んだとも伝えられています。
1558年、義輝に転機が訪れます。近江の六角義賢の仲介により、三好長慶との本格的な和睦が成立したのです。
こうして5年ぶりに京都へ戻った義輝は、御所で親政を再開します。しかし三好氏の力は依然として強大でした。そこで義輝は、三好長慶や松永久秀を牽制するため、将軍直属の精鋭「奉公衆」を幕府に置くことにしたのです。
織田信長との謁見
1559年、尾張の統一を成し遂げた織田信長が、自らの支配を認めてもらうため、将軍・足利義輝との謁見を果たします。
これが足利義輝と織田信長の初対面となりました。
この謁見の場で信長は室町幕府への忠誠を誓い、多額の献上品を捧げました。その見返りとして尾張支配の許可を得た信長は、国元へ戻った後、尾張統一の完成を目指したと考えられています。
ただし、その真意は将軍への忠誠ではなく、当時の京都の情勢を確かめることにあったともいわれています。実際、1560年の桶狭間の戦いの後、信長は上洛への道を切り開くべく美濃攻略へと乗り出していきます。
三好長慶の死と松永久秀の野望
三好氏の力は依然として強大でしたが、ようやく京都で落ち着きを取り戻した義輝は、先延ばしになっていた正室の迎えを決めます。当時23歳で、当時としては晩婚でした。
公家の名門・近衛家から姫を正室に迎えたことで、義輝は朝廷とのつながりを強化することに成功します。
1564年、義輝にとって好機が訪れます。天下人と呼ばれるほどの勢いを誇った三好氏を支えていた弟たちや嫡男が相次いで死去し、打ちひしがれた長慶はまもなくこの世を去ったのです。
三好長慶に傀儡とされてから、ちょうど6年目のことでした。
義輝にとっては喜ばしい出来事でしたが、三好氏には優れた家臣たちがいました。それが松永久秀と三好三人衆です。
義輝は主導権を握ろうとしましたが、久秀や三好三人衆にとっては、将軍が傀儡のままである方が都合がよかったのです。将軍・義輝に傀儡になる意思がないならば、武力による排除を図るしかありませんでした。
足利義輝の最期――永禄の変
傀儡将軍であることを良しとしない義輝。松永久秀や三好三人衆はついに行動を起こします。1565年、彼らの軍勢約1万人が、義輝のいる御所を包囲したのです。これが「永禄の変」です。
御所の異変に気づいた義輝のもとには、側近はわずか30人ほどしかいませんでした。1万の兵に対抗できるはずもありません。それでも義輝は、手をこまねくことはありませんでした。
側近たちと共に奮戦し、敵を次々と斬り伏せていったといいます。ある側近は一人で数十人を倒すほどの奮闘を見せ、義輝自身も自ら武器を取って立ち向かいました。塚原卜伝に師事し、奥義まで授かった義輝が、その実力を人生の最期に振るったのです。
義輝は予備の刀を畳に突き立てて並べ、刀が折れるか刃こぼれするたびに新しい刀と交換しながら、敵を斬り続けました。
剣豪として名高い義輝を、松永軍は容易に倒すことができません。
そこで松永軍は、四方から畳を押し倒して義輝を押さえ込み、止めを刺したと伝えられています。
室町幕府第13代将軍・足利義輝、享年30歳。
この時、同じ場所にいた実母・慶寿院も自害し、義輝の子を身ごもっていた側室も殺されました。三好・松永勢は義輝の側近たちをも容赦なく討ち、奇跡的に生き残ったのは、後の第15代将軍となる弟・義昭だけでした。
足利義輝の辞世の句
足利義輝の辞世の句は、次の通りです。
「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名を上げよ 雲の上まで」
(五月雨の雫は露なのか、悔しくて流す私の涙なのか。ホトトギスよ、誇りを捨てずに戦い散った私の名を、どうか雲の上まで届けておくれ)
まとめ
父・義晴と共に足利将軍家の権威回復を願っていた義輝の夢は、三好・松永勢の襲撃によって無残にも断たれてしまいました。その後、将軍家は14代・15代と続きますが、幕府の権威が回復することはなく、室町幕府は滅亡への道をたどっていきます。
一方、将軍を討った三好氏や松永久秀もまた、乱世の荒波にもまれながら、やがて滅亡への道を歩むことになります。
2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』で、向井理さんがどのような足利義輝を演じるのか、今から注目ですね。