アジアの歴史

関ヶ原の戦いとは?歴史的背景と合戦までの流れをわかりやすく解説

織田信長が本能寺の変で急死すると、その好機を逃さず天下統一へと動いたのが豊臣秀吉です。信長の旧臣たちを巧みに取り込みながら勢力を拡大し、1590年(天正18年)の小田原征伐で北条氏を降伏させて、見事に天下統一を成し遂げました。

天下を安定的に治めるため、秀吉は政権内に五大老・五奉行といった役職を設けます。
大老の筆頭となった徳川家康は主に軍事面を、五奉行を束ねる立場の石田三成は行政実務を分担する体制でした。

もともと家康は織田信長と同盟を結ぶ盟友であり、かつて信長の家臣にすぎなかった秀吉に対しては、複雑な思いを抱いていたはずです。「信長の後継者として天下を取るのは自分だ」と考えていても不思議ではありません。

しかし、信長の死に真っ先に反応し、好機を逃さなかったのは秀吉の方が一枚上手でした。家康は天下統一のため、そして民の太平のため、ひとまず秀吉の傘下に入る道を選択したのです。

豊臣政権下の徳川家康

秀吉の天下統一を支えるため、家康は小田原征伐や九州平定などの戦いで重要な役割を担い、豊臣政権を支える大黒柱となっていきます。しかし、天下統一を成し遂げた秀吉は日本国内だけでは満足せず、隣国・朝鮮への出兵へと野心を向けるようになりました。

周囲の意見にも耳を貸さず、領土拡大へ突き進む秀吉の姿に危険を感じた家康は、新たな国家づくりへ向けて腹案を強めていったといわれています。

※朝鮮出兵は、最終的に明(みん)王朝の征服をも視野に入れたものだったと考えられています。

隣国・朝鮮へ大規模な出兵を行いながらも、思うような成果を挙げられなかったのが、奉行として内政を支えていた石田三成でした。出兵をめぐっては、現場での武功を重んじる武断派と、兵站や検分を担う吏僚派(奉行衆)との対立が深まり、豊臣政権内部の亀裂はさらに広がっていきます。

政権を支えるはずの側近たちの溝が拡大したことこそが、関ヶ原の戦いの始まりだったと言えるかもしれません。

石田三成と徳川家康の権力争い

1598年(慶長3年)、豊臣秀吉が61歳でこの世を去ると、豊臣政権の内部に大きな亀裂が走り始めます。晩年にようやく授かった実子・豊臣秀頼をことのほか可愛がった秀吉でしたが、秀吉の死の時点で秀頼はまだ5歳。幼い君主では、まともな政治は不可能でした。

そこで、秀頼の後見人の座を確実なものにしようと画策する家康と、早くからその野心を見抜いていた三成との間で、権力争いが本格化します。

家康は政治的な婚姻工作を駆使して、旧秀吉時代の大名たちを次々と自陣営へ引き込み、着実に勢力を伸ばしていきました。
これに対抗して三成も、盟友の大谷吉継や五奉行の同僚、近江出身の友人たちを糾合して対抗します。

ただ、三成の人望は決して厚いものではありませんでした。秀吉の武断派として重きをなしていた加藤清正や福島正則らは、三成をひどく嫌っていました。生前の秀吉は、武闘派と奉行衆が事あるごとに対立しないよう仲裁していましたが、その死後は抑えが効かなくなり、互いに顔を合わせるのも不快なほど険悪な関係へと悪化していったのです。

ついに加藤清正ら武断派の武将たちは三成の屋敷を襲撃し、暗殺を図るまでに至ります。これにおびえた三成は、家康の屋敷へ逃げ込みました。家康の家老・本多忠勝が出迎え、家康の寝所へと案内しています。

家康はこの一件の重要性を認識し、双方に武士の鑑となるべき処置を下します。清正には引き上げを命じ、騒動の責任を問われた三成は居城・佐和山城への蟄居(ちっきょ)を命じられました。事実上の失脚となった三成は、絶望の日々を送ることになります。

関ヶ原の戦いの勃発

その頃、家康は東北の上杉氏に謀反の疑いがあるという報せを受け、大軍を率いて会津征伐へと向かいます。これを聞いた三成は、絶好の機会が来たと捉えました。上杉氏が東から家康を釘付けにしている間に、背後から主力を攻撃すれば、挟み撃ちに遭った家康は必ず敗れる――そう計算したのです。

こうして三成を中心に結集した西軍と家康率いる東軍は、1600年(慶長5年)9月15日、美濃国・関ヶ原(現在の岐阜県関ケ原町)にて激突します。これが「関ヶ原の戦い」です。

「天下分け目の大合戦」とも呼ばれたこの戦いは、わずか半日で決着がつきました。敗れた三成は東軍の武将に捕らえられ、京都・六条河原で斬首されています。

戦いの結末と江戸幕府の開幕

こうして両軍合わせて約20万とも言われる、日本史上類を見ない大合戦は幕を閉じました。西軍についた大名の多くは改易や減封に処され、東軍に与した大名には加増が与えられるなど、全国の勢力図は大きく塗り替えられています。

そして1603年(慶長8年)、徳川家康は征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開きます。ここに約260年間にわたる泰平の世、徳川の時代が幕を開けたのです。