ソビエト連邦が大日本帝国に対して宣戦布告したのは、1945年8月8日のことでした。広島への原子爆弾投下(8月6日)からわずか3日後であり、敗北が目前に迫った日本から戦利品の分け前を確保したいという思惑が、この時期の選定の一因となりました。
日ソ中立条約とスターリンの優先事項
そもそも、ソ連と日本の間には1941年4月に締結された「日ソ中立条約」があり、両国は互いに攻撃しないことを約束していました。当時のスターリンにとって最大の脅威はナチス・ドイツであり、1941年6月に始まった独ソ戦では国土の広範囲が戦場となり、ソ連は膨大な人的・物的損害を強いられていました。そのため、極東で日本との新たな戦線を開く余裕はなかったのです。
ヤルタ会談での密約
1945年2月のヤルタ会談において、スターリンは米英に対し「ドイツ降伏後3か月以内に対日参戦する」と約束しました。その見返りとして、南樺太や千島列島の領有、満洲における権益など、戦後の利益を確約されています。つまり対日参戦は、当初から戦後の利得を前提とした計画的な行動だったのです。
ドイツ降伏後、約束どおりの参戦へ
ドイツが降伏したのは1945年5月8日。そこからちょうど3か月後にあたる8月8日、ソ連は日本に宣戦布告し、翌9日未明には満洲へ大規模な侵攻を開始しました。広島への原爆投下によって日本の降伏が早まると判断したスターリンは、参戦のタイミングを逃せば戦後の国際秩序づくりにおける発言力を失うと恐れ、直ちに行動に移したと考えられています。
まとめ
ソ連の対日宣戦が1945年までずれ込んだ理由は、
① 日ソ中立条約の存在
② 対独戦による国力の疲弊
③ ヤルタ会談で定めた「ドイツ降伏後3か月」という日程
の3点に集約されます。そして日本の敗色が濃厚になった瞬間を見計らい、戦後の権益獲得を目指して参戦したのが実態だと言えるでしょう。