北米の歴史

奴隷制をめぐる緊張を高めた4つの出来事――南北戦争前夜のアメリカ

19世紀のアメリカでは、奴隷制をめぐる対立が北部と南部の間で次第に深刻化し、やがて南北戦争へと突き進んでいきました。その過程で決定的な役割を果たしたのが、以下の4つの出来事です。

1. ミズーリ妥協(1820年)

1820年のミズーリ妥協は、ミズーリを奴隷州として、メインを自由州として連邦に加盟させ、上院における自由州と奴隷州の勢力均衡を維持するものでした。

しかし同時に、ルイジアナ買収地域に北緯36度30分の線を引き、それより北では奴隷制を禁止することも定めました。この取り決めに対し、南部の人々の多くは「新しい領土で奴隷を所有する権利を奪われた」と反発し、不満を募らせていきました。

2. ナット・ターナーの反乱(1831年)

1831年、バージニア州サウサンプトン郡で、奴隷身分のアフリカ系アメリカ人ナット・ターナーが、奴隷たちによる武装蜂起を指揮しました。この反乱では数十人の白人が死亡し、南部の白人社会に大きな恐怖とパニックが広がりました。

北部の多くの人々が反乱の暴力を非難した一方、南部では「奴隷を管理し続けるために必要な抑止だ」と擁護する声が強まり、南北間の亀裂はさらに深まりました。

3. ドレッド・スコット判決(1857年)

1857年、最高裁判所はドレッド・スコット事件の判決において、奴隷身分の人々はアメリカ合衆国の市民ではなく、法的な権利を持たないと裁定しました。

この判決は、アフリカ系アメリカ人の権利への露骨な攻撃だと受け取った北部の人々を激怒させました。また、奴隷制廃止を求める世論を一層強める結果ともなり、南北の対立に拍車をかけました。

4. ジョン・ブラウンのハーパーズ・フェリー襲撃(1859年)

1859年、白人廃奴主義者のジョン・ブラウンは、バージニア州ハーパーズ・フェリーにある連邦武器庫を襲撃しました。目的は奴隷反乱を扇動することでしたが、襲撃は連邦軍によって速やかに鎮圧されました。

この事件は南北間の緊張をさらに煽り、南北戦争の引き金の一つとしてしばしば言及されます。

まとめ

ミズーリ妥協からジョン・ブラウンの襲撃まで、これらの出来事はいずれも奴隷制をめぐる意見の対立を先鋭化させ、妥協の余地を狭めていきました。こうして積み重なった緊張は、1861年に始まる南北戦争という悲劇的な結末へとアメリカを導いていくことになります。