ジョン・ランドレス(John Lackland/無地王ジョン、1166年12月24日 – 1216年10月19日)は、1199年4月6日から1216年に死去するまでイングランド王を務めた君主です。「ソフトソード(Softsword)」の異名でも知られ、プランタジネット朝の王ヘンリー2世の末子として生まれました。
若き日:アイルランド領主から反乱へ
父ヘンリー2世の存命の息子の中で最年少だったジョンは、1177年にアイルランド領主(Lord of Ireland)に任命されました。1185年には軍事遠征を率いて同地における自らの権威確立を試みましたが、征服には失敗し、1186年にイングランドへ帰還します。
帰国後のジョンは、自身の相続財産を奪おうと画策していた父や兄たちに対して反乱を起こしました。この内乱はヘンリー2世の死によって終結し、ジョンは兄であり後継者であるリチャード1世(獅子心王)から正式な後継者として認められました。
十字軍と兄弟との対立
リチャード1世が第三回十字軍で聖地へ遠征した際、兄弟の関係は大きく悪化しました。1194年にリチャードが聖地から帰還すると、ジョンはその後数年間にわたり、フランス王フィリップ2世と結んで兄に対する陰謀を巡らせることになります。
即位と統治
1199年にリチャード1世が死去すると、ジョンはイングランド王位の掌握を試みましたが、リチャードの支持者たちから大きな反発を受けました。立場を固めるため、ジョンはアンジュー系諸侯と速やかに和解し、スコットランド王ウィリアム1世(ライオン王)とも同盟を結びます。そして母アリエノール・ダキテーヌの支援のもと、1199年5月27日にウェストミンスター寺院で戴冠しました。
1200年にはフランス王との和平協定を成立させましたが、リチャードが失った大陸側のアンジュー領を回復できなかったことが、イングランド国内に広範な不満をもたらす一因となりました。
最大の功績:スタンダードの戦い
ジョン王の最も重要な功績とされるのが、1199年の「スタンダードの戦い」における勝利です。ヨーク大司教ジョンに率いられたイングランド北部の諸侯がスコットランド軍を撃破し、イングランド国境の安全を確保しました。
マグナ・カルタと晩年
しかし、こうした成功にもかかわらず、ジョン個人の人気の低さと諸侯との対立の激化は、1215年6月15日のマグナ・カルタ(大憲章)の調印につながっていきました。
また、ジョンの治世は王権行政が拡大した時代でもあります。キュリア・レジス(王室法院)の登場や、王室裁判官をイングランド全土の法と正義の執行に広く活用する仕組みが整ったのも、この時期のことでした。
ジョン王は1216年10月19日、イングランド東部のニューアーク城で死去しました。王位はわずか9歳の息子ヘンリー3世が継ぎ、プランタジネット朝は新たな時代へと移行していきます。