マニフェスト・デスティニー(明白な天命)は、連合の形成につながったわけではありません。むしろ、それは最終的にアメリカ南北戦争へと向かう流れを作りました。
マニフェスト・デスティニーとは何か
マニフェスト・デスティニーとは、アメリカ合衆国が北米大陸全体へ領土を拡大するよう運命づけられている、という信念のことです。19世紀に広く浸透し、米墨戦争(1846〜1848年)においてメキシコから領土を獲得することを正当化する根拠となりました。
「連合」とは何か
一方、「連合(コンフェデレーション)」とは、1781年から1789年まで存在した緩やかな国家連合、すなわち連合規約(Articles of Confederation)に基づく体制を指します。この体制は、1789年のアメリカ合衆国憲法の施行によって置き換えられました。
マニフェスト・デスティニーが連合につながらなかった3つの理由
- マニフェスト・デスティニーが流行する頃には、アメリカはすでに独立国家だった
アメリカは1776年に建国されており、19世紀にこの信念が広まる頃には、領土はすでに大きく拡大していました。 - 政治運動ではなかった
マニフェスト・デスティニーは世論としての信念にとどまり、政党や組織的な運動へと発展することはありませんでした。「マニフェスト・デスティニー党」のような政党が選挙に立候補したり、政府政策に影響を与えようとしたりすることはなかったのです。 - 具体的な目標を持たなかった
「アメリカは領土を拡大すべきだ」という一般的な信念ではありましたが、それをどのように実現するかについての具体的な計画や目標は存在しませんでした。
補足:カナダ連邦との関係
なお、この質問が1867年のカナダ自治領の成立(カナダ連邦)を指している場合、話は少し変わってきます。当時のカナダ植民地の指導者たちは、アメリカの拡張主義、すなわちマニフェスト・デスティニーへの警戒心を、連邦結成の重要な動機の一つとしました。つまり、マニフェスト・デスティニーはアメリカ自身の連合体制の形成には影響を与えませんでしたが、北の隣国カナダを統合へと向かわせる外的要因としては機能したのです。
まとめ
マニフェスト・デスティニーは、連合(連合規約による体制)の形成にはつながりませんでした。それは米墨戦争における領土獲得を正当化した世論上の信念であり、アメリカ政府の形成に直接的な影響を与えたものではありません。ただし、その拡張主義的な性格は、後の南北戦争やカナダ連邦の成立など、北米大陸の歴史全体に大きな影響を及ぼしていきました。