1820年以降の最大の争点――奴隷制
1820年以降、アメリカ合衆国の北部諸州と南部諸州の間で最大の争点となったのは、「奴隷制」の存続をめぐる問題でした。
合衆国建国初期には、奴隷制は北部と南部のどちらにも存在していました。しかし、その影響と重要性は地域によって大きく異なっていました。農業経済に強く依存していた南部では、タバコや綿花などを生産する大規模なプランテーション(農園)の運営に、奴隷として扱われる人々の労働が不可欠となっていました。
奴隷とされた人々は法的に「財産」とみなされ、基本的な権利や自由をことごとく否定されていました。家族の絆や教育を受ける権利さえ認められない、過酷な状況に置かれていたのです。
南北で異なる奴隷制への姿勢
一方の北部諸州では、経済構造の転換(商工業への移行)、宗教的な改革運動、そして個人の自由や人権を重視する思想の広まりといった要因に後押しされ、時代とともに奴隷制廃止へと段階的に向かう動きが見られました。
このように、同じ国でありながら奴隷制に対する考え方が正反対だったことが、南北対立の根本的な原因となりました。
西部拡大と奴隷制問題の複雑化
19世紀前半、合衆国が西へと領土を拡大していくにつれ、奴隷制の問題は単なる道徳的・経済的な議論にとどまらず、領土政策や政治権力の配分と深く絡み合うようになりました。
新たに合衆国へ加わる準州(テリトリー)で奴隷制を認めるべきか、それとも禁止すべきか。この一点をめぐり、北部と南部の主張は真っ向から衝突しました。
この問題は極めて論争的であり、自由州と奴隷州の間の勢力均衡、連邦政府の権限の範囲、そして州の権利(states' rights)といった、国家の根幹に関わる重大な政治的議論を引き起こしました。
1820年には、ミズーリを奴隷州として、メインを自由州として同時に承認し、北緯36度30分より北での奴隷制を禁じる「ミズーリ妥協」が成立するなど、両陣営の均衡を保とうとする試みも行われました。しかし、1850年の妥協やカンザス・ネブラスカ法など、その後の一連の取り決めも対立を根本的に解消することはできませんでした。
南北戦争への道
こうした構造的な対立は、やがて南北間の深刻な緊張と分裂を生みました。地域社会を二分する一連の政治的危機(セクショナル・クライシス)が繰り返されるなか、妥協の余地は次第に失われていきます。
そして1860年のエイブラハム・リンカーンの大統領当選を契機に南部諸州が相次いで合衆国からの脱退を宣言し、1861年、ついに南北戦争(アメリカ内戦)が勃発しました。奴隷制をめぐる長年の対立は、国家を二分する内戦という形で決着を迎えることになったのです。