実は、「ディルク・ハルトフ(Dirk Hartog)がオーストラリアを探検した」という表現は厳密には正しくありません。彼が到達したのは、後にオーストラリアと呼ばれることになる大陸の西海岸です。当時、この大陸にはまだ「オーストラリア」という名前すら存在せず、ヨーロッパ人にとっては伝説上の南方大陸(テラ・アウストラリス)の一部にすぎませんでした。
航海の本当の目的
1616年、ハルトフはオランダ東インド会社(VOC)の船「エンドラフト号(Eendracht)」の船長として、オランダから喜望峰を回り、東インド諸島(現在のインドネシア)のバタヴィア(現ジャカルタ)へ向かう貿易航海に出発しました。彼の目的はあくまで香辛料貿易のための安全な航路の確保であり、未知の大陸を探検することではありませんでした。
当時のオランダ船は、いわゆる「ブラウエル航路」と呼ばれる手法を採用していました。これは、喜望峰から強い偏西風(ロアリング・フォーティーズ)に乗って東へ進み、十分に東進した地点で北へ針路を変えてジャワ島へ向かうというものです。しかし、この航路では東進しすぎた場合、まだ地図にほとんど記録されていない大陸の西海岸に突き当たる危険をはらんでいました。
歴史的な偶然の上陸
1616年10月25日、ハルトフの船は予想以上に東へ進みすぎたため、現在の西オーストラリア州シャーク湾に浮かぶ島(現在のダーク・ハートグ島)に到達しました。これが、記録に残る限りヨーロッパ人によるオーストラリア西海岸への最初の上陸です。
ハルトフは、自らの到着を後世に証明するため、錫(ピューター)製の皿に航海の記録を刻んで島に残しました。この「ハルトフ皿(Hartog Plate)」は、オーストラリアに関連する現存最古のヨーロッパ人の遺物として知られています。
まとめ
つまり、ハルトフは「オーストラリアを探検するために」航海したのではなく、東インドへの安全な航路を求めた結果、偶然にも後にオーストラリアと呼ばれる大陸の西海岸に到達したのです。この偶然の出会いこそが、オーストラリア西部におけるヨーロッパ人活動の歴史の幕開けとなりました。