南アメリカの歴史

インカ帝国の崩壊 ― ピサロ率いる177名が挑んだ征服の歴史

16世紀初頭、南米アンデスに君臨していたインカ帝国は、推定1200万人もの国民を擁する巨大国家でした。同時代のヨーロッパ諸国の人口がおよそ700万人だったことを考えれば、その規模は圧倒的です。ところが、新大陸で最も組織化され、高度な文明を築いていたこの帝国は、わずか200名足らずのスペイン人征服者の手によって崩壊へと追い込まれていきます。

歴史書が語らない「征服」の実像

一般に読まれてきた歴史書の多くは、司祭やヨーロッパ人、植民者たちの視点で書かれています。彼らにとって、未知の文化――しかもヨーロッパよりも豊かで組織的な文明――と比較されること自体が屈辱であり、その記述には強い偏りが見られます。

たとえば、あるフランシスコ会司祭は歴史書の中でこう断言しています。
「神がこれほど悪徳と野獣性に満ちた種族を創造されたことはない。優しさや文化のかけらも混ざっていない。(中略)インディオはロバよりも愚かで、何事にも労力を惜しまない」

しかし当のインカの人々から見れば、歴史はまったく違う顔を持っていました。故郷と帝国を奪われ、神のごとく崇拝していた皇帝を目の前で殺され、見たことも聞いたこともない「王」や「神」に仕えることを強いられた――そんな無数の個人の痛みこそ、真の「崩壊の歴史」だと言えるでしょう。

フランシスコ・ピサロの来航とペルー発見

征服者フランシスコ・ピサロは1502年に新大陸へ渡り、パナマ地峡から太平洋を「発見」したバスコ・ヌーニェス・デ・バルボアの遠征に参加しました。1527年には、南方に「黄金の王国」が存在するというパナマ先住民の情報をもとに、ペルーの存在を確認します。

1532年5月、ピサロは植民地の拠点となるサン・ミゲルを建設。ここを足場に、新しい支配者アタワルパが南東約560kmの山あいの町カハマルカにいるとの情報をつかみました。

177名の小部隊と撤退者たち

ピサロはわずか177名を率いてカハマルカへの行軍を開始します。途中、兵士たちの間に動揺が広がると、彼は行軍を止めてこう宣言しました。
「帰りたい者は今すぐ帰れ。私は残った者たちとともに征服を続ける。多くても少なくても構わない」
9名が離脱し、部隊は歩兵106名と騎兵62名に縮小されましたが、士気はむしろ最高潮に達しました。

ほどなくして、アタワルパ自身の使節が贈り物とともに訪れます。その言葉は驚くほど友好的で、「客人を歓迎したい。山間の宿営地へ招きたい」というものでした。

カハマルカ到着 ― 圧倒的な兵力差

1532年11月15日、重い鎧に喘ぎながらアンデスの希薄な空気を行軍したスペイン隊は、チェス盤のように見えるカハマルカの平原を眼下に収めます。町は二つの要塞に守られており、一つは中央広場に、もう一つは渦巻き状の形で町の縁に築かれていました。

しかしアタワルパはすでに町を退去しており、南へ5km離れた谷間に数千のテントを連ねて野営していました。その光景を目にした瞬間、スペイン人は自らの圧倒的な数的劣勢を思い知らされます。とはいえ、引き返すにはすでに遅すぎました。

デ・ソトとアタワルパの対面

同じ日、ピサロは20騎の騎士を遣わし、自分の名でインカ皇帝に挨拶させます。エルナンド・デ・ソトに率いられた騎馬隊は、馬という動物を見たことのない原住民たちの野営地を駆け抜けていきました。

通訳を介してピサロへの訪問を促しても、アタワルパは沈黙を守り、隊長に目を向けることさえありませんでした。ある記録によれば、激怒したデ・ソトは馬を前へ進め、その鼻息が皇帝の被る赤い房飾りを揺らすほどまでに迫ったといいます。それでもアタワルパは微動だにしませんでした(ただしこの後、目の前の「怪物」に恐怖して後ずさりした護衛たちに対し、斬首を命じたと伝えられます)。

膠着状態は、より経験豊富な外交官であるエルナンド・ピサロ(フランシスコの弟)の到着によって、ようやく収拾されます。

ウィラコチャ神伝説とインカ側の戸惑い

メキシコのアステカの場合と同様に、インカにも海へ消えた白き神ウィラコチャの伝説がありました。この奇妙な侵略者たちは、今まさにペルーへ戻りつつあるウィラコチャの使いなのだろうか――インカ側には、そう受け取るだけの理由があったのです。

11月16日正午、平原に集う5万の戦士

11月16日の正午、アタワルパの野営地から戦士たちが動き始めると、平原に集結した兵の数は、恐怖に震える観察者の目には少なくとも5万人に見えたといいます。町の入り口でアタワルパは再び足を止め、入るべきかどうか思案しました。ピサロからの再度の招待を受け、第一波となる6000人のインカ兵が町になだれ込みます。

日没近く、皇帝の華麗なる行列

日没が近づいた頃、ついにインカ皇帝が姿を現します。ピサロの書記官シェレスはこう記録しています。
「まず、さまざまな色の服をまとった戦士の一団が、まるでチェス盤のようにやって来た」
続いて三つの部隊がそれぞれ異なる装束で歌い踊りながら進み、さらに金属の鎧をまとい、金銀の冠を頭に戴く精鋭部隊が続きました。そしてアタワルパは、コンゴウインコの羽で内張りされ、金銀で飾り立てられた輿(こし)に乗り、大勢のインカ人に担がれて登場したのです。

捕虜となった皇帝と帝国の終焉

この日、広場に仕掛けられた待ち伏せにより、アタワルパはわずか数時間で捕らえられます。皇帝は身代金として、部屋ひとつ分の黄金と銀の提供を約束しましたが、莫大な財宝が集められた後も解放されることはなく、1533年7月に処刑されました。同年には首都クスコが陥落し、アンデス最大にして最も整備された文明は、ここに幕を下ろすことになったのです。