ミズーリ州を奴隷州として連邦に加えるという動きが激しい対立を招いたのは、奴隷州と自由州の勢力均衡が崩れる恐れがあったからです。当時のアメリカ合衆国では、自由州と奴隷州がそれぞれ11州ずつ存在し、連邦議会上院における南北の勢力は完全に均衡していました。
もしミズーリが奴隷州として加盟すれば、この微妙な均衡は奴隷州側に傾くことになります。これは自由州にとって、自らの権利や利益に対する重大な脅威とみなされたのです。
議会を二分した激しい論争
こうした背景のもと、連邦議会では「ミズーリを奴隷州として認めるべきか、それとも自由州として認めるべきか」をめぐって熾烈な論戦が繰り広げられました。この論争は単なる一州の加盟問題にとどまらず、奴隷制の将来や連邦の在り方そのものに関わる根本的な対立であったため、南北双方とも一歩も譲らない状況が続きました。
1820年の「ミズーリ妥協」による解決
この膠着状態を打開したのが、1820年に成立したミズーリ妥協(Missouri Compromise)です。この妥協案では、以下のような内容が取り決められました。
- ミズーリを奴隷州として連邦に加盟させる
- その見返りとして、マサチューセッツ州から分離したメイン州を自由州として加盟させ、上院の勢力均衡を維持する
- ルイジアナ買収地域については、北緯36度30分以北において将来の奴隷制を禁止する
これにより、当時としては南北の利害を調整する形で危機は回避されました。
妥協の限界と歴史的意義
しかしながら、この妥協は問題の根本的な解決にはなりませんでした。トーマス・ジェファーソンはこの妥協について「夜半の火の鐘」と表現し、国家分裂の前兆であると憂慮したと伝えられています。
実際、1854年のカンザス・ネブラスカ法によってミズーリ妥協は事実上廃止され、奴隷制をめぐる南北の対立はさらに先鋭化していきました。そしてこの対立は、最終的に南北戦争(1861年〜1865年)へと国を導くことになるのです。
ミズーリ州の加盟問題は、アメリカ史において奴隷制という深い亀裂がいかに国家の運命を揺るがしたかを示す、象徴的な出来事といえます。