南アメリカの歴史

イギリス政府は、タウンゼント諸法制定後に他のアメリカ植民地がマサチューセッツを支援するとは予想していなかったのか?

結論から言えば、イギリス政府は、1767年に厳しい「タウンゼント諸法」が成立した後も、他のアメリカ植民地がマサチューセッツに同調して支援に回ることはないと考えていました。イギリス当局の見立てでは、各植民地はそれぞれ利害が異なり、王冠への忠誠心を保ち続けるため、マサチューセッツの反抗的な動きには加担しないはずだというのが基本的な予測でした。

タウンゼント諸法とは何だったのか

タウンゼント諸法は、財政大臣チャールズ・タウンゼンドが主導した一連の法令で、ガラス・鉛・ペンキ・紙・茶などの輸入品に対して新たな関税を課すものでした。その目的は、植民地からの歳入確保と、イギリス本国の官僚機構への資金供給でした。また、関税徴収を強化するためにアメリカ委員会が設置され、植民地側の反発は次第に強まっていきました。

イギリス政府の誤算

イギリス政府は、マサチューセッツ湾直轄植民地だけが強硬に抵抗し、他の植民地はこれを支持しないだろうと楽観視していました。しかし実際には、マサチューセッツ議会が起草した「マサチューセッツ回状」が各植民地へ送られ、「代表なくして課税なし」という原則をめぐる共通の不満が呼び水となりました。

植民地の連帯と不輸入運動

結果として、各植民地はイギリス製品の不輸入協定(ボイコット)を通じてマサチューセッツへの連帯を示しました。この経済的圧力はイギリス商人たちに大きな打撃を与え、最終的に1770年にはタウンゼント諸法による関税の大半が撤廃されることになります。ただし茶に対する課税だけは残り、後のボストン茶会事件へとつながっていきました。

まとめ

イギリス政府は、植民地間の結束を過小評価し、他の植民地は王権に忠実なままマサチューセッツを見捨てると予想していました。この読みは外れ、むしろ植民地全体の団結と抵抗運動を促す結果となり、アメリカ独立革命へ向かう重要な転換点の一つとなったのです。