南アメリカの歴史

ハーバート・フーバーは大恐慌からアメリカを救えたのか?――その政策と歴史的評価

結論から言えば、ハーバート・フーバーは大恐慌からアメリカを救い出すことはできませんでした。1929年の株式市場暴落に始まる世界恐慌の初期に大統領を務めたフーバーは、経済危機に効果的に対応する政策を実行できず、失業率は急上昇し、国民生活は深刻な打撃を受けました。彼の後を継いだフランクリン・D・ルーズベルトが、いわゆる「ニューディール」と呼ばれる一連の政策によって、ようやく国を恐慌からの回復へと導いたのです。

大恐慌とフーバー政権の始まり

フーバーは1929年3月に第31代アメリカ合衆国大統領に就任しましたが、そのわずか7か月後の10月、「暗黒の木曜日」と呼ばれる株価大暴落が発生します。これをきっかけに銀行の連鎖倒産、企業の大量倒産、失業者の急増が起こり、アメリカ経済は史上最悪の不況へと突入しました。

フーバーの政策とその限界

フーバーは「自助努力」や「個人主義」を重んじる保守的な経済観を持っており、政府による大規模な市場介入には消極的でした。当初は景気が自然に回復すると楽観視されていましたが、状況は悪化の一途をたどります。

とはいえ、フーバーが何もしなかったわけではありません。公共事業として巨大ダム(後のフーバーダム)の建設を推進し、1932年には金融機関や鉄道などへの融資を行う復興金融公社(RFC)を設立するなど、従来の方針より踏み込んだ対策も講じました。しかし、これらの施策は規模が小さく、時すでに遅く、一般市民の窮状を直接救うものではありませんでした。

さらに、1930年に成立したスムート=ホーリー関税法は、高額な関税が各国の報復を招き、世界貿易をさらに縮小させたと強く批判されています。また、早期の恩給支給を求めてワシントンに集まった退役軍人たち(ボーナス行進)を軍隊で強制排除した事件は世論の猛反発を買い、フーバーの支持率を決定的に低下させました。

ルーズベルトとニューディールへの道

1932年の大統領選挙でフーバーは、民主党候補のフランクリン・D・ルーズベルトに圧倒的な差で敗北しました。就任したルーズベルトは、銀行休業日の宣言、テネシー川流域開発公社(TVA)の設立、社会保障制度の創設、大規模な公共事業による雇用創出など、国家の積極的な介入を柱とする「ニューディール政策」を次々と打ち出しました。

ニューディールだけで完全に恐慌が終結したわけではありませんが、絶望していた国民に希望を与え、経済は徐々に回復へと向かいました。本格的な景気回復は、第二次世界大戦に伴う戦時経済によって達成されたとする見方もあります。

まとめ

ハーバート・フーバーは、大恐慌という未曾有の危機を前に、伝統的な自由放任主義の枠内での対応にとどまり、有効な打開策を打ち出せませんでした。その結果、恐慌からの脱却は後任のルーズベルトとニューディール政策に託されることになります。この歴史的教訓は、経済危機において政府が果たすべき役割を考える上で、今日なお重要な示唆を与えています。