ヨーロッパの歴史

強制収容所における大量虐殺――毒ガス・チクロンBと「死の商人」たち

致死性の毒ガスが詰められた缶は丁寧に包装され、ラベルが貼られていた。そこには製造元の名前が記されていた――「Tesch u. Stabenow(テッシュ・ウント・シュタベナウ)、ハンブルク1、メスベルクホーフ」。第二次世界大戦中、この会社は複数の強制収容所にチクロンBを供給していた。もともと害虫駆除用として使われていたこの毒物によって、ナチスはアウシュヴィッツだけでも90万人以上の人々を殺害したのである。

文:イレーネ・アルテンミュラー

チクロンBがもたらした巨額の利益

今日なお、青酸ガスの一種であるチクロンBという名前は、産業的に組織された大量虐殺の象徴となっている。しかし害虫駆除会社テッシュ&シュタベナウ社(略称「テスタ」)にとって、チクロンBは何よりも儲かる商業だった。1942年から43年にかけて、このハンブルクの企業の利益は急騰し、4万ライヒスマルクから1943年には12万ライヒスマルクへと跳ね上がった。特に優良な顧客だったのがSSである。強制収容所を管理していた組織だ。1943年だけで同社はアウシュヴィッツに1万2000キログラムのチクロンBを納入している。

大量殺戮に「有効」だった毒ガス・チクロンB

官僚制的に組織された大量殺戮。毒ガスを運ぶトラックには特別な許可証が必要だった。

当初、SSはこの薬剤を収容所のバラック内のネズミ、トコジラミ、ゴキブリなどの害虫駆除に使用していた。しかし1941年9月から、SSはチクロンBを人間の命を意図的に絶つために使い始めた。最初の「実験」では、600人のソ連軍捕虜がアウシュヴィッツでガス殺された。収容所長ルドルフ・ヘスはこの手段があまりにも「効果的」だと判断し、以後アウシュヴィッツでの主要な殺害手段としてチクロンBを使うことを決めた。ほどなくして、ナチスは特別に建設されたガス室で、ハンブルクの会社が製造した毒ガスを使い、数十万人に及ぶユダヤ人、シンティ・ロマ人、同性愛者、捕虜、その他の囚人たちを殺害していった。

窒息による苦悶の死

青酸ガス・チクロンBによる死は恐ろしいものだった。痙攣を伴う激痛の後、耐え難い窒息が訪れる。ガス室内では、体力のある者が少しでも長く呼吸できるよう上の方へと這い上がり、弱い者は下で先に死んでいった。そのためガス室では死体がピラミッド状に積み重なっていったという。

強制収容所で開かれたテッシュ&シュタベナウ社の講習会

アウシュヴィッツでは7つのガス室で数十万人がチクロンBによって殺害された。

当時、化学者のブルーノ・テッシュはテッシュ&シュタベナウ社のトップだった。彼は何度も各地の強制収容所を訪れ、SS隊員たちに毒ガスの使用方法を教える講習会を開催した。SS隊員ヴィルヘルム・バールは、テッシュの指揮下で行われたこうした「消毒要員講習会」の一つに参加した一人である。彼は戦後の証言で、1942年9月と11月に、ハンブルクのノイエンガンメ強制収容所で合計448人のソ連軍捕虜のガス殺に携わったことを認めている。ノイエンガンメにはガス室がなかったため、バールは天窓から密封された拘禁用ブンカーの中へチクロンBを投げ込んだ。バールは1946年にその罪で処刑されている。

ヒムラー自身が会社を支援

1945年1月27日のアウシュヴィッツ解放後、収容所の看守たちは毒ガスの在庫を示している。

1945年3月30日のハンブルク空襲でテッシュ&シュタベナウ社の事務所が破壊されたとき、この会社がSSにとってどれほど重要であったかが明らかになった。SSの最高指導者ハインリヒ・ヒムラーは自らハンブルクの建築警察に働きかけ、会社の再建を支援するよう求めた。手紙の中で彼は、「テッシュ&シュタベナウ社ができるだけ早く業務を再開できることは、親衛隊全国指導者の利益になる」と説明している。

1946年3月1日〜8日:戦争犯罪人として裁かれたテッシュ

その数週間後、戦争は終わった。イギリス軍は「戦争犯罪捜査部隊」を北ドイツに展開し、ナチス戦犯の逮捕に当たった。ARDメディアテークのドキュメンタリー「ナチ・ハンターズ――闇への旅」でも描かれている通りである。ブルーノ・テッシュと、同社の副社長カール・ヴァインバッハー、そして技術者ヨアヒム・ドロージーンの3人が逮捕されたのは、1945年9月3日、会社の敷地内でのことだった。通報したのは、かつて同社の会計士を務めていたエーリヒ・ゼームだった。1946年3月1日から8日まで、3人は強制収容所での大量殺戮への関与の疑いで、イギリス軍事法廷の前に戦争犯罪人として立たされた。これはハンブルクのクリオハウスで開かれた、イギリス軍法会議による最初の戦争犯罪裁判だった。



ブルーノ・テッシュは何を知っていたのか?

法廷でテッシュは、チクロンBが人間の殺害に使われていたことを知らなかったと否認した。毒物は消毒と防虫のためだけに使われていると思っていた、というのだ。しかし複数の証人が彼に不利な証言をした。ある秘書は、口述筆記の後にテッシュが「チクロンBは人を殺すためにも使われている」と語るのを聞いたと証言した。また元会計士のエーリヒ・ゼームは、1942年に会社の書類の中で偶然ビジネス旅行報告書を見つけた経緯を法廷で語った。その中でテッシュは、「害虫駆除で行っているのと同じように」青酸を使って人間を殺害することを「国防軍の指導的人物たち」に提案していたのである。

1946年5月16日、処刑される

証人たちは副社長ヴァインバッハーに対しては不利な証言をしなかった。しかし軍事法廷は検察側の見解、すなわちヴァインバッハーは「テッシュが知っていたことすべてを知っていたはずだ」という見解に従った。1946年3月8日、裁判官たちはテッシュとヴァインバッハーに絞首刑による死刑判決を下した。二人は1946年5月16日、ハーメルン刑務所で処刑された。一方、技術者で会社の古参従業員だったヨアヒム・ドロージーンは無罪放免となった。

メスベルクホーフの銘板が「死の商人」を今に伝える

長い議論の末、1997年になってようやく、メスベルクホーフのファサードにはっきりと目につく記念プレートが取り付けられた。

テッシュ&シュタベナウ社が本拠を構えていた商業ビル、メスベルクホーフは今日まで残っている。有名な海運業者でハンブルクのハパグ(ハンザ汽船会社)の頭取だったアルベルト・バリーンにちなんで名付けられたこの堂々たるレンガ造りの建物は、ハンブルクのコントーアハウス地区にあり、有名なチレハウスの向かいに位置している。ナチスはバリーンのユダヤ人としての出自を理由に、1938年に建物の名称変更を行わせた。

1997年以来、シンプルな青銅の銘板が、1940年代に強制収容所へ毒ガス・チクロンBを供給したテッシュ&シュタベナウ社がここに本社を構えていたことを伝えている。当時の建物所有者だったドイツ銀行が当初抵抗し、「物件の収益性への悪影響」が懸念されていたためである。

「死はハンブルクからやってきた」

1997年6月の銘板除幕式で、ハンブルク・ユダヤ人共同体のガブリエレ・フェニエスはこう語った。「私はここに立って、死がハンブルクからやってきたことを知っています。それは恐ろしい繋がりです。」