ヨーロッパの歴史

ノルデナイ島の戦後史――英国占領軍の「楽園」から東フリースラント随一の観光拠点へ

ニーダーザクセン州が誕生して75年。その当時、北海に浮かぶノルデナイ島は依然としてイギリス軍の管理下にありました。ライン駐留イギリス軍の兵士たちが島で休暇を過ごし、ドイツ人観光客はごくわずか。彼らが休暇を手に入れるために使ったのは、酒やタバコとの物交換だったといいます。

文:シュテファニー・グロスマン

第二次世界大戦中、島は「海の要塞」と化した

第二次世界大戦中もノルデナイ島は、ドイツ国防軍の防衛最前線の一翼を担っていました。第一次世界大戦時と同じく島は軍事制限区域に指定され、掩蔽壕(バンカー)や軍事施設、弾薬輸送用の海軍鉄道、飛行場を備えた「海の要塞」の様相を呈していました。砂丘には対空砲台が数基も構築され、ドイツの主要都市へ向かう連合軍の爆撃機編隊を迎え撃とうとしたのです。堅固に要塞化されたこの島を、イギリス軍のパイロットたちは「ハリネズミ(Hedgehog)」と呼びました。

大量の将兵を収容するため、大規模な兵舎や宿舎も建設されました。現在のノルドヘルム住宅地、ミューレン通り周辺の住宅群、体育館などは、いずれもこの時期に生まれたものです。

観光全面禁止――戦時下の島

開戦当初、島では子供たちの集団疎開事業も行われていました。都市の子供たちが田舎での滞在を通じて心身を休ませる狙いです。ところが1941年の聖木曜日、イギリス軍の低空攻撃機による襲撃で子供たちが犠牲になると、学校クラス単位で島からオーストリアへ移送されることになりました。そもそも島は民間人に対して閉ざされており、一切の観光活動が禁じられていました。その結果、観光業は戦争によって完全に崩壊します。

英ライン軍が開設した「リーブ・センター」

戦後、まず島の暮らしを彩ったのはイギリス軍でした。1946年から、イギリスライン軍はノルデナイ島に夏季保養キャンプ、いわゆる「リーブ・センター(Leave Centre=休暇施設)」を開設します。カイザー通りの「ホテル・ゲルマニア」をはじめ、クアハウス(療養施設)、プール、ゴルフ場といった島の主要施設は次々と接収されました。

海岸沿いで有名だった「ミルクバー・バイ・ザ・シー」は、兵士とその家族のための「ティー&コーヒールーム」として使われています。ゲオルクスヘーエのふもとのビーチチェア小屋では、将校たちが自国民向けに乗馬の機会を提供していました。占領軍はあらゆる快適さを独占しようとし、利用できるものは何でも利用したのです。海を望む島一番の繁華街・カイザー通りは、たちまちイギリス軍の手に渡ることになりました。

接収品は一枚残らずリスト化された

接収の対象となったのはホテルや療養施設だけではありません。ペンションや民宿、さらには家庭用品まで、必要とあれば没収されました。

イギリス占領軍は没収品を綿密に記録しています。たとえば1945年5月22日付けのリストには、マットレス750個、シーツ750枚、皿1,500枚と記載され、2日後にはワイン44本が追加されています。「実際、このリストには何でも出てくるんです。売値1ライヒスマルクのトースターのような安価な品物まで含まれています」と、島の公文書管理者マティアス・パウシュ氏は、2021年6月初旬に放送されたNDRのドキュメンタリー『ハッピー・バースデー・ニーダーザクセン』の中で語っています。

1950年代初頭まで、ノルデナイ島はイギリス兵とその家族に人気の旅行先であり続けました。彼らは地元住民にも閉ざされたままのビーチでくつろいだのです。「リーブ・センター」は1952年まで存続しました。

酒とタバコが「休暇の通貨」になった時代

イギリス軍が島で休暇を謳歌する一方、軍政当局は限定的な保養営業のみを認めていました。しかし終戦直後の島には、保養を求める自国民や観光客を受け入れる余裕などほとんどありませんでした。旧東部領土からやって来た数百人規模の戦争難民や被追放者が、多くの宿泊施設に収容されていたからです。

戦後まもなく島を訪れた最初期のドイツ人客たちは、しばしば現物支給で宿泊代を払いました。ベーコンや酒、さらに食料切符が人気の交換品目でした。しかし何よりも広く使われたのがタバコで、無価値と化したライヒスマルクに代わる「代用通貨」として定着していたのです。休暇客の中には、ダンスパーティーへの参加のためにポーターに賄賂を贈る者さえいたといいます。

1948年の通貨改革が闇市を消した

『ベルリナー・イルストリールテ』などの新聞は、東フリースラント諸島の闇市を「成り上がり者たちの楽園」「悲しい戦後の一章」と批判しました。毎日のように酒の瓶やさまざまな物資が取引されていたことは、もはや公然の秘密でした。

「かなりの荒んだ時代だったのでしょうね」と、パウシュ氏は当時の供給事情を踏まえて振り返ります。連合国による闇市の取り締まりは、総じて失敗に終わりました。1948年の通貨改革まで、ドイツ人の手元にはお金がなかったからです。ドイツマルクの導入によってようやく物資の流通が正常化し、闇市は次第に干上がっていきました。

経済奇跡が観光を再び花開かせる

1952年、イギリスは接収していた保養施設を解放しました。これにより、ドイツ人保養客のための秩序ある営業が可能になります。経済奇跡と購買力の向上は人々の消費意欲を高め、旅行需要をも後押ししました。

1950年代には多くのバカンス客が北海沿岸へ押し寄せ、ノルデナイ島の観光は本格的に復活します。バイエルン、ハンブルク、ラインラントから休暇客が殺到しました。国外からの客も、東フリースラント諸島で2番目に大きなこの島に引き寄せられています。スウェーデンやスイスからの観光客もその一例です。

島民は寝室や子供部屋まで貸し出した

1960年代初頭、ノルデナイ島の観光は真のブームを迎えます。1959年は島の歴史に「狂乱の夏」として刻まれました。好天に恵まれて文字通りの島ブームが巻き起こり、初めて10万人を超える保養客と観光客が訪れたのです。この勢いは1960年代初頭にも続き、「他人のベッド」は引っ張りだこになりました。

島民たちは知恵を絞り、手持ちのあらゆるベッドを貸し出しました。自らは地下室に移り住み、観光客に寝室や子供部屋を提供します。居間は朝食ルームとして使われました。テイクアウト店がなくレストランも少ない島では、食事のために行列ができ、空いている席はすべて埋まり、夫婦でも隣り合わせに座れないことさえあったといいます。

長年の窮乏を経験した人々は、それでも満足していました。「食べたい、腹いっぱいになりたい――それが埋め合わせの時代だったんだ。バンザイ、俺たちはまだ生きてる!」と、ノルデナイ島の老舗出身で4代目ホテル経営者のティヤルク・グラムベルク氏は、NDRのドキュメンタリーの中で当時を語っています。

観光ブームが島の街並みを変えた

続く観光ブームの中で、1960年代から70年代にかけて、ノルデナイ島には箱型の新しい集合住宅やホテルが次々と建設されました。かつて華やかだったカイザー通りでも、古い保養別荘や民宿が駆逐されていき、街並みは大きく様変わりします。北のビーチには高のビーチには高層建築が2棟そびえ立ち、西のビーチでは歴史的なビーチホテルの背後に高層ホテルが立ち並ぶ光景が見られるようになりました。

東フリースラント諸島最大の観光拠点へ

ノルデナイ島は1947年に「州認定北海保養地」に認定され、翌1948年には市制を施行しました。現在、島は東フリースラントを代表する北海リゾートです。約6,000人の住民に対し、平年で年間約60万人の観光客が訪れます。比較として、7島中最大のボルクム島の宿泊客数は約30万人で、ノルデナイ島の半分程度にとどまります。島全体の延べ宿泊数は、東西の隣接諸島を合わせた数に匹敵します。観光業は、東フリースラント諸島とニーダーザクセン・ヴァッデンシー国立公園周辺において最大の経済要因となっているのです。