第一次世界大戦の発端:サライェヴォ事件
1914年6月28日、ボスニアの首都サライェヴォにおいて、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公が、セルビア人民族主義者のガブリロ・プリンツィプによって暗殺されました。この「サライェヴォ事件」こそが、第一次世界大戦勃発の直接的な引き金となった出来事です。
大公夫妻の暗殺は、単独の事件にとどまらず、一連の外交危機を引き起こし、わずか数週間のうちにヨーロッパの大部分、ひいては世界中を巻き込む全面戦争へと急速にエスカレートさせていきました。
暗殺から開戦までの連鎖反応
事件を受けて、オーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに対して強硬な姿勢をとります。7月23日には、事実上受け入れ不可能な内容の最後通牒を突きつけました。セルビアが一部の要求のみを受け入れると回答したことを口実に、帝国は7月28日にセルビアへ宣戦布告します。
ここから事態は一気に拡大しました。汎スラヴ主義を掲げるロシアがセルビア支援のため動員を開始すると、同盟国としてドイツがロシアおよびフランスに宣戦布告。さらにドイツ軍が中立国ベルギーへ侵攻したことで、イギリスも参戦を決意します。複雑な同盟網が各国を次々と巻き込み、地域紛争は瞬く間に世界大戦へと変貌を遂げたのです。
背景に潜っていた構造的要因
とはいえ、暗殺事件だけが開戦の原因ではありません。当時のヨーロッパでは、列強間の対立する同盟体系(三国同盟と三国協商)、帝国主義的な植民地獲得競争、激化する軍拡競争、そしてバルカン半島における深刻な民族問題など、緊張を高める要因がすでに積み重ねられていました。
サライェヴォ事件は、まさに火薬庫のような状態にあったヨーロッパに火をつけた導火線だったといえます。この事件を契機として、各国の指導部は外交による解決の道を選ばず、動員と宣戦へと突き進んでしまったのです。