ヨーロッパの歴史

「私たちはシュタージを閉鎖した」—1989年12月4日、ロストク市民が歴史を変えた夜

1989年末、東ドイツ・ロストクのシュタージ(国家保安省)職員たちが秘密ファイルを消し去ろうとしたとき、それを阻止したのはデモに駆けつけた市民たちだった。元造船技師のゲルハルト・ロッゲは、自身の人生を一変させたあの夜を今も鮮明に覚えている。

取材・文:イルカ・クロイツトレーガー

ロストクでの燭光集会を終えたデモ隊は、さらにファイルが破壊されるのを防ぐため、シュタージ本部へと向かった。

1989年12月4日の午後8時頃、ゲルハルト・ロッゲの電話が鳴った。この一本の電話から、彼の人生は大きく動き始める。妻インゲボルグとともに、すぐにロストクの国家保安省の庁舎へ来てほしいという呼び出しだった。午後の燭光集会を終えたデモ隊が、シュタージ職員によるファイルの持ち出しを阻止すべく入り口を封鎖しており、人手が必要だというのだ。

「ほかの友人たちにも電話をかけ、暖かい服と熱い紅茶を詰めた魔法瓶を持って出発しました」と、当時44歳だったロッゲは語る。

シュタージへの乗り込みは「火山の上のダンス」

ロッゲ夫妻は、アウグスト・ベーベル通りの灰色のシュタージ庁舎の裏口へ向かった。1950年代に建てられた庁舎は有刺鉄線付きの塀に囲まれ、3つの大きな入り口があるだけだった。鋼鉄製の二重門と小さな煉瓦造りの門番小屋の外には、その夜、塀に設置されたサーチライトの光と監視カメラの下、約200人の市民が集まっていた。

「門の前の雰囲気は、まるで民衆の祭りのようでした」とロッゲは振り返る。「しかしそれは、火山の上でのダンスでした。誰もが、自分たちが一線の上に立っており、その向こうには東ドイツ国民が誰よりも恐れた部隊が控えていることを意識していたのですから」

破壊できるものはすべて破壊せよ

数日前から、シュタージ職員が全国で何トンものファイル、フィルム、ディスクを破壊していることが漏れ伝わり始めていた。「さらなる搬出トラックや、有名な黒煙を吐く煙突が目撃され、私たちはあちこちで『いったい何が起きているのか』と問いかけ始めました」とロッゲは回想する。わずか2週間前なら、国家保安省の入り口ゲートに直接乗り込むことなど、誰も思いもよらなかっただろう。

「あの建物の前を通りかかるたび、胃の腑が縮むような気分でした」とロッゲは言う。「そこでは、いつでもあなたを路上から、あるいは自宅から連れ去ることのできる人々が働いている。そしてそれに対しては、世界のどんな権力も手出しできない——そう分かっていたのです」

しかし12月4日、東ドイツの多くの都市では、恐怖よりも怒りが勝った。市民運動「新フォーラム」のメンバー5人は午後から、ロストク・シュタージ局長ルドルフ・ミッターク中将との交渉を続けていた。彼らは庁舎への立ち入り、独立調査委員会の設置、ファイル破壊の即時停止を要求した。文書破壊を禁じるベルリンのモードロウ政権の布告が、彼らの背中を力強く押した。夜9時頃、ミッタークはついにデモ参加者の一部を庁舎内に入れることを承諾した。ロッゲもその一人だった。

「最初の一発が撃たれたら、すべて終わりだ」

デモ隊は広大なシュタージ敷地内の約2000室を捜索し、執務室のドアに封印を施していった。

ロッゲたちは真っ暗な中庭へ入った。壁越しにデモ隊のざわめきが聞こえてくる。「目が暗闇に慣れてくると、約10メートル先に、鉄兜をかぶり戦闘服を着た男たちが2グループいるのが見えました」とロッゲは語る。「彼らは短機関銃などで完全武装し、門を見張っていました。彼らが極度の緊張状態にあるのが肌で感じられました」。双方は数分間、身じろぎもせずに対峙した。やがて、外側から最初の手がゲートと塀の上に伸びてきた。

「武装した男たちの列に、衝撃が走るのが分かりました」と、ロッゲはその夜最大の恐怖の瞬間を振り返る。「彼らは配置につき始めた。そして私は確信しました。最初の一発が撃たれたら、すべて終わりだと」。最初の頭が塀の上に現れたとき、ロッゲの耳に力強い声が届いた。「暴力反対!挑発するな!」すると案の定、手は引っ込み、シュタージの男たちは武器を下ろしたのだった。

最も機密性の高いファイルの中の市民たち

男たちはシュタージの食堂にも封印を施した。

ロッゲは本館の薄暗い玄関ホールに案内された。そこにはすでに大勢のデモ参加者が待ち構えていた。彼らは約10人ずつの2グループに分かれ、2人の検察官を寝床から起こして、庁舎内の部屋を正式に封鎖する手順を整えた。こうして2グループは、巨大なシュタージ本部の約2000室を巡る作業を開始したのである。本館は地上4階・地下1階で、地下には拘置所があった。ほかにも複数の渡り廊下棟、地区国家保安局が入居する高層棟、自前の車両を収める車庫ホールも備えていた。「間取りなどまったく知らず、私たちは偽札のように庁舎敷地内を右往左往しました」とロッゲは笑う。

シュタージ職員に出くわせば帰宅させ、執務室のドアには次々と封印を施していった。「しかし検察官たちは、どちらかといえば『赤い』人々でした。そうでなければ、そもそもあの地位には就けなかったでしょうから」と、ロッゲは非協力的な法律家たちについて回想する。一般市民が今や最も機密性の高いファイルに自由にアクセスできるようになったことなど、彼らにとって明らかに不快この上ない出来事だったのだ。

無数の非常用照明がともる廊下と執務室を巡り歩いた末、男たちは、敷地内の各監視所からのあらゆる情報が集約される部屋にたどり着いた。そこにはシュタージ職員がひとり座り、監視カメラのモニターを睨みながら、毎分入ってくる報告を記録し続けていた。「私たちが部屋に入り、彼の手からペンを奪ったとき、この綿密な状況評価は終わりを告げました」とロッゲは言う。この瞬間まで、シュタージの人々は、自らが本当に支配権を失いうることなど、想像すらしていなかったのだ。

「私たちはシュタージを閉鎖したところです」

朝6時になってようやく、監視を引き継いだ警察を除き、庁舎全体が空になった。「疲れ果ててそこを後にし、そのまま仕事に向かいました」とロッゲは言う。「途中で郵便配達の女性に出会いました。私は彼女に言いました。『私たちは今しがた、シュタージを閉鎖したところなんです』。すると彼女は『それは素晴らしい』と答えてくれました」

排除後の日々、シュタージ本部を清算するための独立調査委員会が設立された。医療施設や銀行を備え、地下室には膨大な武器庫まで抱える、いわばひとつの小さな町のような施設だった。ロッゲはこの委員会の創設メンバーとなり、ある日、シュタージ職員とともに再び建物の果てしない廊下を歩いたときのことを今でも覚えている。「ロッゲさん、あなたは今や、この建物の誰よりも多くを知っている」と男は彼に言った。「そのとき気づいたんです。軍隊式の権威に慣れ切った彼の思考の中で、私が新しい上司として据えられたのだと。『ああしろ、こうしろ』と言えば、どんな馬鹿げた命令でも実行したでしょうね」

今日では、当時の関係者たちが保存されたシュタージファイルを閲覧できる。写真はロストクの出先機関。

1980年代初頭から平和運動に関わってきた牧師の息子であるロッゲにとって、この認識は耐え難いものだった。彼が造船の卒業技師としての職業に戻ることは、二度となかった。ロッゲは1990年10月3日まで独立調査委員会にとどまり、東西統一後はロストク州社会庁の設立を支えた。今日この庁は、子ども、青少年、亡命希望者、重度障害者の権利を守る役割を担っている。東ドイツには存在しなかった種類の官庁である。