
ローマ共和国の歴史を語るうえで、「十二表法(十二銅表法)」の存在は欠かせません。
しかし、用語としては覚えていても、その具体的な内容まで理解している人は意外と少ないのではないでしょうか。
この記事では、十二表法の概要から成立の背景、そして現代にまで及ぶ歴史的意義までをわかりやすく解説します。
十二表法の原文は、実は現代に伝わっていない
山川出版社の教科書などで最重要用語として扱われる十二表法。その理由は、ローマ史上初にして唯一の成文法だったからです。
法には慣習法・成文法・判例法といった種類がありますが、紀元前8世紀の建国から紀元後5世紀の西ローマ帝国滅亡まで続いたローマの歴史において、条文として明文化された法律はこの十二表法だけでした。
そもそも成文法は古代社会において非常に珍しい存在です。現代でも、明確な成文法を持たない国や文化は少なくありません。
では、なぜ十二表法の原文が現代に伝わっていないのでしょうか。それは、ローマが十二表法を廃止・削除することなく、必要に応じて条文を追加し続けたためです。その結果、どの文章がどこで加筆されたのかが判別できなくなってしまったのです。
名称の由来となった「12」という数字は、条文が12枚の青銅板に刻まれたことに由来します。青銅板はローマの中心であるフォルム・ロマヌム(ローマ広場)に設置され、ローマ市民の基本的な教養としても親しまれていたようです。
しかし残念ながら、紀元前390年のケルト人(ガリア人)によるローマ侵攻の際に、これらの青銅板は失われてしまいました。
十二表法が制定された背景
十二表法が制定されたのは紀元前450年頃とされています。当時のローマ社会には、プレブス(平民)と呼ばれる平民階級と、パトリキ(貴族)と呼ばれる貴族階級との間に大きな身分差がありました。
具体的には、貴族と平民の結婚が認められない、投票権における平民の発言力が弱い、同じように兵役義務を果たしながら土地を持たない平民が借財のために債務奴隷にされる、といった不公平が存在していました。
こうした状況を受け、ローマは平民と貴族の身分差をすでに解消していた先進国ギリシアへ、視察のため3人の使節を派遣することを決めます。
当時のギリシアはペルシア戦争に勝利したばかりで、アテネではソロンの改革に始まる民主化の流れが育ちつつありました。その後、ペリクレスの時代に完成したアテネの民主政は、貴族の勢力が弱まり平民が台頭するローマ政治に大きな影響を与えることになります。
その後、クレイステネスの改革に倣うべく、帰還した3人を含む計10人からなる委員会(デケムウィリ/十人委員会)が設置されました。しかしその実権は、名門貴族クラウディウス家出身のアッピウス・クラウディウスが握っていたといわれています。
ちなみにクラウディウス家がどれほどの名家だったかというと、ローマ帝国第2代皇帝ティベリウスから第5代ネロまでの皇帝が、いずれもクラウディウス家ゆかりの人物によって占められています(ユリウス=クラウディウス朝)。
ところが、アッピウスが示した法草案は、当時のプレブスたちを納得させるには不十分なものでした。不満を抱いた平民たちはローマ北東部の「モンテ・サクロ(聖山)」に立てこもる抗議行動に出て、パトリキ側は譲歩を余儀なくされ、こうして十二表法は完成に至ったのです。
十二表法の要点
十二表法の内容は多岐にわたります。裁判に関する規定もありますが、その大部分は財産権などを定めた民事法的な内容で、平民の権利がおおむね保護されるようになりました。
「明らかに奇形の子供は殺してもよい」といった過激な条項も含まれていますが、それまで貴族に独占されていた裁判を受ける権利が平民にも認められ、法の前での平等が明示されたことは、当時としては画期的な出来事でした。
ただし、貴族と平民の結婚が依然として禁止されるなど、内容としては十分とはいえませんでした。
平民と貴族の結婚が認められたのは、紀元前445年のカヌレイウス法によってです。また、現代における民法と商法の関係、すなわち一般法と特別法の関係の基礎が築かれたのもこの時期だといえます。
同一の事項について一般法と特別法が矛盾する場合に特別法が優先的に適用される、という考え方の原型は、すでにこの時代のローマ法に見ることができます。このローマ法はのちにフランス、ドイツ、イギリスの法体系に影響を与え、現在の日本の法律にもその影響が及んでいます。
十二表法は、現代の法にまで影響を及ぼしているという点で、きわめて大きな歴史的意義を持つ法律だといえるでしょう。