
ユグルタ戦争(紀元前112年〜紀元前106年)は、北アフリカのヌミディア王国と共和政ローマの間で繰り広げられた戦争です。
ヌミディアといえば「騎馬の王国」として知られ、第二次ポエニ戦争の勝敗を左右した存在でした。
ハンニバルはヌミディア騎兵とともにアルプスを越え、ローマ軍を圧倒しました。一方、スキピオはヌミディア王マシニッサと手を組むことで、ハンニバルを打ち破っています。
それ以来、ヌミディアはローマの同盟国として繁栄を続けてきました。では、なぜ両国は戦争へと向かうことになったのでしょうか。
野心家のヌミディア王ユグルタ
ユグルタとは、当時のヌミディア王の名前です。
紀元前149年、スキピオの盟友であったマシニッサは89歳でこの世を去りました。当時の医療水準を考えれば、驚くほどの長寿だったと言えます。
マシニッサの死後、ヌミディアは三人の王によって統治されることになりました。領土を三等分したわけではなく、権限を三分割するという、世界史的にも珍しい体制です。
王位そのものは長男ミキプサが継ぎ、次男グッルサが軍事力を、三男マスタナバルが司法権をそれぞれ担いました。ローマとの同盟は小スキピオことスキピオ・アエミリアヌスを通じて維持され、ヌミディアは北アフリカ第一の勢力へと成長していきます。
ユグルタは三男マスタナバルの側室の子でした。彼は有能な人物で、ヌミディア王の命により小スキピオ指揮下のローマ軍に参加。そこで目覚ましい活躍を見せ、スキピオ・アエミリアヌス自身がヌミディア王宛てに賞賛の手紙を書いたほどでした。
こうした経緯から、ヌミディア王ミキプサはユグルタを養子として迎え入れるのです。
ところが14年後、ユグルタの野心は爆発します。
その背景には、スキピオ一族の没落があったと考えられています。
小スキピオは子どもがないまま死去し、グラックス兄弟の改革をつぶした張本人であるスキピオ・ナシカは国外逃亡を余儀なくされました。さらに、大スキピオの孫にあたるグラックス兄弟は、元老院によって殺害されてしまったのです。
スキピオ家とヌミディア王家は、ローマにおけるパトロヌスとクリエンテス(保護者と被保護者)の関係にありました。ユグルタ側から見れば、スキピオ家という後ろ盾を失った以上、ローマに忠誠を誓う理由は薄れたのかもしれません。
国の衰退を憂えて改革に乗り出した若者二人を公然と殺すようなローマに見切りをつけるのは、決して不思議なことではないでしょう。実際この頃、同盟市戦争やミトリダテスの反乱、シチリア奴隷反乱など、ローマへの反抗が各地で相次いでいました。
紀元前118年、ヌミディア王ミキプサが世を去ります。彼はローマ元老院に後見を依頼し、ユグルタと自分の二人の息子による共同統治を考えていたようですが、ユグルタは二人の共同統治者と争い、これに打ち勝ちます。
ミキプサの実子の一人は殺され、生き残ったもう一人はローマへ逃亡しました。
ローマ元老院は国土を東西に分割する和解案を提示し、ユグルタもひとまず受け入れます。しかしその5年後、ユグルタは再びミキプサの子らに戦争を仕掛け、圧倒的な勝利を収めました。
先代の王の二人の息子は、ここで全員命を落としたことになります。
このとき、ヌミディア国内にいたイタリア人までもが犠牲になったため、ローマはヌミディアへの宣戦を布告しました。
時は紀元前112年。こうしてユグルタ戦争の幕が開けたのです。
ユグルタ戦争とローマの腐敗
ローマは執政官(コンスル)ルキウス・カルプルニウス・ベスティアをヌミディアに派遣しますが、ユグルタは戦わずしてローマ側に降伏を申し出ます。
ユグルタはそのままローマへ赴き、王位を争う従弟マッシヴァを暗殺し、さらには護民官まで買収するという蛮行に出ました。
これが発覚してユグルタはローマから追放されます。「売り物の都よ、お前は買い手がつき次第滅びるだろう」という有名な言葉を残したのも、この時のことです。
再びヌミディア侵攻を開始したローマでしたが、今度の遠征は失敗に終わります。ローマ軍は武装を解除された状態で祖国へ送り返されるという屈辱を味わいました。このとき、ローマ側の将帥が買収されていたという話も伝わっています。
そこでローマは執政官メテッルスを新たに派遣し、ヌミディア平定に乗り出します。
かつてローマ軍団の一員として活躍したユグルタとの戦いは泥沼化し、膠着状態に陥りました。
ユグルタは平地での決戦を一切避け、ゲリラ戦術に徹したため、メテッルスは攻めあぐねるばかりでした。
さらにローマ軍内部にも問題がありました。司令官メテッルスと副官の折り合いが悪く、指揮系統にまとまりがなかったのです。メテッルスは副官が提出した作戦を却下し続け、副官はついに自らが司令官になることを決意します。
強引に実権を奪ったように見えますが、民主的な手続きとしては、副官はローマに戻り、執政官に選出されたのです。
その副官の名は、ガイウス・マリウス。
紀元前107年、執政官となったマリウスはヌミディア方面の司令官として、ユグルタとの戦いに臨みます。
マリウスは武人として優れたユグルタに苦戦しますが、コルネリウス家のスッラの活躍により、戦場ではなく会談の場でユグルタを捕らえることに成功しました。隣国マウレタニア王ボッフスがユグルタを裏切り、スッラに引き渡したことが決定打となったのです。
捕らえられたユグルタはそのままローマへ送られ、マリウスの凱旋式で市中を引き回された末に処刑されました。
そこには救いも教訓もありません。あったのは腐敗と争いだけです。
かつて理想と謳われたローマは、もはやそこには存在しなかったのです。