
ローマの覇権を決定づけたアクティウムの海戦は、紀元前に世界各地で行われた海戦の中で最大規模の戦いであり、同時にローマ共和政史上最大の内乱の決着戦でもありました。
この一戦は共和政ローマに終止符を打ち、ローマ帝国誕生への道を開いたのです。
本記事では、その経緯を詳しく解説します。
表向きは「ローマ対エジプト」、実態はカエサルの後継者争い

アクティウムはギリシャ西部、プレヴェザ近郊に位置する岬です。この地で地中海の歴史を大きく動かす大規模な海戦が繰り広げられることになりました。
ちなみに、カエサル時代最大の会戦であるファルサルスの戦いもギリシャで行われています。ローマ人の覇権争いがたびたびギリシャの地で決せられたのは、興味深い偶然と言えるでしょう。
ここで歴史教科書について考えてみると、面白い事実に気づきます。日本の教科書には、ローマ史上最大の会戦であるファルサルスの戦いは一切載っていません。しかし、それより重要性で劣るとされるアクティウムの海戦は、どの教科書にも必ず登場します。
カエサルは「人間は自分の見たいものを見る」と言いました。日本人はアクティウムの海戦を見たかったのかもしれません。
さて、アクティウムの海戦を語るうえで最も重要なのは、「誰と誰が戦ったのか」という点です。
世界史が得意な人でも意外と理解していない方が多いのですが、アクティウムの海戦はファルサルスの戦いとは異なり、単なるローマの内戦ではないとされています。
公式には、アクティウムの海戦はローマ共和国とプトレマイオス朝エジプトが地中海の覇権をかけて戦った戦争として位置づけられているのです。
この巧妙な構図の仕掛け人は、いうまでもなくオクタウィアヌスでした。
日本人は一般にオクタウィアヌスを「初代皇帝」と認識しています。しかし、そもそも「皇帝」とは何でしょうか。
中国の始皇帝の称号をそのままオクタウィアヌスに当てはめるのは、世紀の誤訳だと言わざるを得ません。
オクタウィアヌスは自らを「皇帝」と呼んだことは一度もありません。彼はカエサルからその名を継承しただけであり、その名は義理の息子ティベリウスへ、さらにカリグラ、クラウディウス、ネロへと受け継がれていきました。
後に彼らの継承した名が「皇帝」と呼ばれるようになったのです。私たち現代人には理解しがたいかもしれませんが、それは無理もないことです。なんとオクタウィアヌスは、同時代のローマ市民や元老院議員さえも欺いていたのですから。
カエサルは終身独裁官となり、その結果、暗殺されました。一方のオクタウィアヌスは、自らを「プリンケプス(第一市民)」と称しただけでした。
そう、これこそがオクタウィアヌスの驚異的な政治センスなのです。
そして、その巧みさはアクティウムの海戦にも遺憾なく発揮されました。
オクタウィアヌス対アントニウスという構図で見れば、これはローマの内戦にほかなりません。しかし、内戦に勝利したカエサルの最期がどうであったかは、先に述べた通りです。
では、エジプトとの戦争であればどうでしょうか。
クレオパトラとの戦いは、内戦ではなく「ローマを外国の専横から守るための戦い」として描くことができます。
オクタウィアヌスは、アントニウスとクレオパトラにとってあまりにも巨大な相手でした。世界史上、これほど巧妙な統治能力を発揮した人物は他にいないでしょう。
賢女と謳われるクレオパトラでさえ、結局はオクタウィアヌスの手のひらの上で転がされていたのです。
ローマ兵の離反
オクタウィアヌスが演出した対立構図は、劇的な効果を上げました。
日本でも戊辰戦争の際、西郷隆盛らが錦の御旗を掲げ、幕府軍を「賊軍」に仕立て上げましたが、構図としてはまったく同じです。
アントニウスに従っていた兵士たちは、自分たちがローマの敵になってしまったことに恐怖しました。
それでも、アントニウスにスッラのような圧倒的カリスマがあれば、話は違ったかもしれません。
しかしアントニウスはクレオパトラに魅了され、完全に我を失っていました。ローマの領土であるはずのシリアや小アジアをそっくりクレオパトラに譲り渡し、挙句の果てには凱旋式を挙げるべき場所として、首都ローマではなくエジプトのアレクサンドリアを選ぶという暴挙に出ていたのです。
※下図の緑色の領域が、アントニウスがクレオパトラに譲り渡した領土です。常軌を逸した行為でした。

こうした状況の中、兵士たちは次々とオクタウィアヌスのもとへ走りました。
エジプトにあるのは富だけです。3000年の歴史を持つ古国ゆえに、豊かな財力を誇っていました。
その資金で大量の傭兵を雇い、多数の軍艦を建造しました。しかし、所詮は数をかき集めただけの寄せ集めにすぎません。
名誉と誇りのために祖国を守ろうとする兵士と、金のためだけに戦う兵士。どちらが強いかは、言うまでもありません。
アクティウムの海戦
それでも、アントニウスのもとに残った将兵の中には、陸戦を提案する者もいました。陸路からローマ本土を攻める作戦です。
オクタウィアヌスの政治力は世界史上断トツですが、本人の戦い方は決して上手ではありません。実際の軍指揮はアグリッパという名将に一任していました。客観的に見れば、アグリッパとアントニウスの力量はほぼ互角で、もし陸戦で決着をつければ勝機は十分にあったのです。
ところがクレオパトラがどうしても海戦にこだわりました。すっかりクレオパトラの言いなりになっていたアントニウスは、陸戦ではなく海戦で決着をつける方針を採用します。当然の帰結として、有能な将兵がさらにアントニウスのもとを去っていきました。
クレオパトラがなぜ海戦に固執したのかは今も謎です。おそらく大した理由はなかったのかもしれません。クレオパトラの行動は、常に不可解だったのです。
それでも、純粋な戦力ではクレオパトラ側が上回っていました。
ローマ側の兵力は約2万人、エジプト側は約2万3000人。軍艦の数はローマが約400隻、エジプトが約230隻ですが、エジプト側には巨船が多数含まれていました。
この構図は、1600年後のアルマダの海戦(スペイン無敵艦隊との戦い)にも見られます。小型船は機動力に優れるため、小型船を多く擁するイギリスが、巨船を揃えたスペインを破ったのと同じ理屈です。
仮にそうした要素がなくても、勝利は最終的にローマのものであったでしょう。
開戦早々、エジプト側の劣勢は歴然となりました。まるで当初から相手にならなかったかのような一方的な展開でした。
それを見たクレオパトラは戦場から逃走します。アントニウスもそれを目撃すると、前線を放棄して後を追いました。
残された兵士たちは、オクタウィアヌスに降伏しました。あまりにもあっけない決着でした。
戦いの結果を受け、東方の諸侯も続々とローマ側につきます。
クレオパトラを見限ったのか、アントニウスのもとには「クレオパトラが死んだ」という偽の報せが届きます。すべてを悟ったのか、あるいはクレオパトラなしでは生きられなかったのか、アントニウスはただちに自害しました。
その後、クレオパトラはオクタウィアヌスを魅了しようと試みますが、彼にはまったく通じませんでした。
絶望したクレオパトラは毒蛇に腕を噛ませ、この世を去ったと伝えられています。
こうして地中海の覇権はローマの手に戻り、オクタウィアヌスは「ローマを救った英雄」として凱旋式を挙行しました。
エジプト王国は滅亡します。
そして共和政ローマも、まもなくその幕を閉じることになるのです。
ローマ帝国の誕生でした。