ヨーロッパの歴史

名誉革命で退位したイングランド王ジェームズ2世――その評判と功績を徹底検証

ピューリタン革命の結果、王政復古が実現し、イギリスはステュアート家を王家として再出発することになりました。

王位に就いたチャールズ2世は「怠け王」と呼ばれましたが、議会との衝突を極力避け、巧みに議会と付き合うことで安定した統治を実現していました。

そして1685年、チャールズ2世が死去。歴史は再び大きく動き始めます。

ジェームズ2世の即位

ジェームズ2世は1633年、チャールズ1世と、フランス国王ルイ13世の妹であるアンリエッタ・マリアとの間に生まれました。

幼少期にピューリタン革命が勃発すると、ジェームズは女装してオランダへ脱出します。一方、国内に残った父チャールズ1世はクロムウェルによって処刑されました。

推測の域を出ませんが、この経験からジェームズ2世は議会に対して強い恨みを抱いていたのでしょう。王室一族は母方の故国フランスへ亡命し、その際に一家はカトリックへ改宗しました。これが後年、ステュアート家を襲う大きな災いの種となるのです。

やがてクロムウェルが死去すると、兄のチャールズがイングランド王チャールズ2世として即位します。これが王政復古です。

チャールズ2世自身もカトリックでしたが、それを隠して議会とうまく折り合いをつけてきました。しかし、弟ジェームズの宗教問題をめぐっては、議会と対立せざるを得ませんでした。

ヘンリー8世以来、イングランドはローマ教皇の支配から離脱し、国王を長とする独自の国教会(イングランド国教会)を確立してきたからです。

ところがチャールズ2世に嫡子がおらず、次の王位継承者は弟のジェームズです。もし彼が王になれば、カトリック教徒がイングランド国教会の頂点に立つことになります。これは個人の信仰の問題にとどまらず、国家のアイデンティティに関わる重大問題でした。

こうした中、イギリス議会はジェームズの王位継承を認めるトーリー党と、反対するホイッグ党とに分裂します。

議員たちが激しく論争を続けるうちに、チャールズ2世が亡くなり、ジェームズ2世が即位しました。

ここから歴史が大きく動き始めるのです。

カトリック教徒がイングランド国王になる

即位前のジェームズは、チャールズ2世の推薦でスコットランドの統治を任され、スコットランドの人々との交流を深めていました。

そもそもステュアート家は元々スコットランドの王家であり、その基盤はイングランドではなくスコットランドにありました。歴代のスコットランドとイングランドの対立の歴史も、このあたりに背景があるといえます。

しかし、イングランドとの同化を経た当時のスコットランドでは、国教会派のプロテスタントが多数派を占めており、カトリックの王に対する反発は強かったのです。

モンマスの反乱とジェームズ2世の大粛清

兄チャールズ2世は正妻との間に子をもうけませんでしたが、愛人たちとの間には多くの子をもうけています。その一人であるモンマス公は、自分こそ正当な王位継承権を持つと主張して反乱を起こしました。

ジェームズ2世は王立軍を組織し、これをあっさり鎮圧します。

そして問題はここからです。ジェームズ2世は反乱鎮圧後も王立軍を解散させず、そのまま常備軍として保持したのです。

絶対君主制を支えるのは官僚機構と常備軍です。議会は王の動きに警戒心を強めていきます。

そして、議会の不穏な予感は的中します。

民主主義の砦のように語られるイギリスの歴史ですが、実際にはクロムウェルの時代のように、武力による統治が行われてきた側面もあるのです。

ジェームズ2世もまた武力による粛清に踏み切りました。州総督(ロード・レフテナント)の半数以上、治安判事の約4分の3、さらに1200人を超える官職者が罷免され、代わりにジェームズ2世のお気に入りのカトリック教徒たちがこれらの地位に就いたのです。

さらに決定的だったのが、ジェームズ2世に王子が誕生したことです。

王妃は中央イタリアのカトリック国モデナ公国の姫君でした。王妃が産んだ子は間違いなくカトリックとして育ちます。

それまで、ジェームズ2世の死後の王位は、オラニエ=ナッサウ公ウィレムに嫁いだ長女メアリーが継ぐものとされていましたが、この見通しは完全に崩れ去りました。

「もうやるしかない」――イングランド中がそう考えるようになったのです。

名誉革命

議会はウィレムの妻メアリーと結託し、議会軍を組織しました。

1688年11月、ウィレムはイングランドに上陸します。それを見たジェームズ2世は逃亡しました。

オラニエ公ウィレムは自らをウィリアム3世と名乗り、妻メアリーとの共同統治を宣言します。

こうして名高い名誉革命が幕を閉じたのです。

ジェームズ2世とウィリアム3世の戦い

名誉革命は学校では「無血革命」として教えられています。イングランド本土においては、それは事実です。

「イングランドでは血が流れなかった」――しかしアイルランドは別でした。

カトリック勢力が優勢なアイルランドに亡命したジェームズ2世に対し、ウィリアム3世もまたアイルランドへ上陸し、両軍は衝突します(ウィリアマイト戦争)。

ボイン川の戦いで激突した両軍でしたが、ウィリアム3世が圧倒的な差で勝利しました。これによりアイルランドは国教会の支配下に置かれることになり、これが今日まで続く北アイルランド紛争などの禍根の一因となっています。

一方、ジェームズ2世は戦況が不利になると一目散に逃げ出し、フランスへ亡命しました。

従兄弟にあたるフランス王ルイ14世は、ジェームズ2世のためにポーランド国王の座を用意しましたが、ジェームズはこれを拒否。最後にはフランス王にも見放され、1701年に死去しました。享年67歳です。

ジェームズ2世への個人的評価

ジェームズ2世は確かに無能な君主でしたが、例えば中国史に登場する徽宗帝などとは、かなり色合いが異なるように思われます。

ジェームズ2世の失政の裏には、激しい宗教対立がありました。

すべてを犠牲にしてまでカトリックとしての信仰を貫いたその姿は、ある意味で恐ろしくもあり、同時に一種の悲壮感すら感じさせます。

イギリスの歴史は、王と議会が主導権を争った歴史でもあります。その文脈で見れば、ジェームズ2世のやり方が特に間違っていたとも言い切れないでしょう。

しかし結局のところ、ジェームズ2世は歴史的な悪君となり、「イギリス国民の敵」として描かれることになりました。その最大の原因は、やはり彼の戦いにおける弱さにあるように思われます。

戦いになるとすぐ逃げ出す。高圧的な態度とは裏腹に度胸がない。彼は王の器ではなく、どこかの会社の課長のような人物だったのでしょう。

とはいえ、そんな人物が王になったことは、むしろその後の大英帝国の発展を見れば、イギリス国民にとって幸運だったと言えるかもしれません。

ここにこそ、立憲君主制の強みがあるのかもしれません。

中国や古代ローマのように絶対専制を採用すると、暗君や暴君が出現した瞬間に国家が傾いてしまいます。立憲君主制ならば、どんな人物が王になっても当面は安定しているのです。

イギリスの政治体制はその後も現在まで続き、曲折はありながらも、今なお世界有数の大国としての地位を保っています。

そう考えると、ジェームズ2世の「功績」は、案外大きかったのかもしれません。