歴史教科書のみならず、政治経済の教科書にも必ず登場する「名誉革命」。ピューリタン革命と合わせて「イギリス革命」と呼ばれる一連の動きの核心には、宗教問題と議会・慣習法をめぐる権力闘争がありました。本記事では、名誉革命の経緯、画期的な『権利章典』の内容、そして立憲君主制への道筋をわかりやすく解説します。
議会と法の伝統:ステュアート朝との対立
議会承認の伝統と王権神授説
イギリスには中世以来、「国王といえど議会の同意なしに課税できない」という確固たる慣習法がありました。常備軍を持たないイングランドでは、戦時に議会を招集し、認められた税収で軍隊を編成するのが伝統でした。
しかし、エリザベス1世没後に即位したスコットランド出身のステュアート家は、この伝統を軽視し、「王権神授説」を掲げて議会を無視する政治を繰り返しました。この対立がピューリタン革命(清教徒革命)を招き、チャールズ1世の処刑という未曾有の事態へと発展します。
ピューリタン革命から王政復古へ
オリバー・クロムウェルの死後、議会はチャールズ1世の長男チャールズ2世を王として迎え入れます(王政復古)。「怠惰な王」と揶揄されたチャールズ2世でしたが、「君臨すれども統治せず」の姿勢で議会と協調し、安定を保ちました。しかし、問題はその弟ジェームズ(後のジェームズ2世)の存在でした。
チャールズ2世とジェームズは亡命先のフランスでカトリックに改宗していました。チャールズ2世はこれを隠しましたが、正嫡の子がおらず、弟ジェームズが継承権を持つことになります。カトリック国王の誕生を巡り、イングランドは「継承排除危機」と呼ばれる大論争に包まれます。
継承危機と二大政党の誕生
カトリック王位継承をめぐる「排除危機」
ジェームズの王位継承を認めるか否かで、国民は二分されました。継承を容認する「トーリー党(後の保守党)」と、拒否して議会の権限で排除しようとする「ホイッグ党(後の自由党)」です。これらは世界初の近代的政党とされ、後の英米二大政党制の原型となりました。
結局、結論が出ないままチャールズ2世が崩御し、1685年、ジェームズ2世(スコットランドではジェームズ7世)が即位します。
トーリー党とホイッグ党
この二大政党の対立構造は、単なる継承問題にとどまらず、王権と議会権のバランス、宗教寛容のあり方など、イギリス政治の根幹をなすテーマを内包していました。
モンマスの反乱とジェームズ2世の暴走
即位早々、チャールズ2世の庶子モンマス公が反乱を起こします。ジェームズ2世は王立軍でこれを鎮圧すると、軍を解散せず維持し、その軍事力を背景にプロテスタントの有力者( lord-lieutenant、治安判事、議員など)を大量に解任し、カトリック教徒を要職に就けました。議会制と国教会制の根幹を揺るがすこの暴挙に、議会は危機感を募らせます。
名誉革命の展開:流血なき政権交代
オラニエ公ウィレムの上陸とジェームズ2世の逃亡
議会はジェームズ2世の娘メアリとその夫、オラニエ公ウィレム(オランダ総督)に支援を要請。1688年、ウィレムがイングランドに上陸すると、ジェームズ2世は戦わずしてアイルランドへ逃亡しました。国王が自ら国を捨てたことを「基本法を破り、王位を放棄した」とみなした議会は、王位を空位と宣言し、ウィレムをウィリアム3世、メアリをメアリ2世として共同統治者に迎え入れます。この一連の政変が国内でほぼ無血だったため、「名誉革命」と称されました。
ウィリアム戦争とボイン川の戦い
しかし、アイルランドに逃れたジェームズ2世は、従弟のフランス王ルイ14世の支援を受けて抵抗を続けます。ウィリアム3世はアイルランド遠征を行い、1690年のボイン川の戦いでジェームズ2世を破ります。ジェームズ2世は再びフランスへ亡命し、生涯をそこで終えました。イングランド本土は無血でしたが、アイルランド・スコットランドでは流血を伴ったため、近年では「無血革命」の呼称に疑問を呈する声もあります。
『権利章典』:立憲君主制の法的基盤
主要条項とその意義
1689年、議会はウィリアム・メアリ夫妻に王冠を提供する条件として『権利章典』を提示し、承認させました。正式名称は「臣民の権利と自由を宣言し、王位継承を定める法」。その核心は以下の通りです。
- 議会の同意なき法の停止・免除の禁止
- 議会の同意なき課税・平時の常備軍保持の禁止
- 議会選挙の自由、議会内言論の自由、請願権の保障
- 議会の定期的な招集
- 国王による司法介入の制限、陪審制の保障、残虐な刑罰の禁止
- カトリック教徒の王位継承権排除
要するに、「課税と立法は議会の合意による」「絶対王政を認めない」「カトリック教徒を王としない」の三点に集約されます。これにより、国王は「君臨すれども統治せず」という立憲君主へと法的に位置づけられました。
不文憲法としてのイギリス憲法
日本のように成文憲法(日本国憲法)が唯一の最高法規であるのとは異なり、イギリスには単一の「憲法典」がありません。マグナ・カルタ(1215年)、権利請願(1628年)、この権利章典(1689年)、議会法(1911年・1949年)など、歴史的に積み重ねられた成文法・慣習法・判例の総体が「不文憲法」として機能しています。権利章典は、その柱石の一つとして今日なお効力を持ち続けています。
名誉革命の影響と歴史的評価
立憲君主制の確立と王室の存続
名誉革命の最大の成果は、フランスやオーストリアのような絶対王政の道を閉ざし、議会主権に基づく立憲君主制を確立した点にあります。この制度的枠組みがあったからこそ、イギリス王室は革命の波を乗り越え、現代に至るまで存続し得たと言えます。
英蘭軍事バランスの変化と海上帝国への道
ウィリアム3世はオランダ総督兼イングランド王という二重の地位を利用し、英蘭の軍事協定を結ばせました。陸軍はオランダ:イギリス=5:3、海軍は3:5の比率で分担させ、イギリス海軍に優位を与えました。アルマダ海戦でスペインを、名誉革命でオランダを相対的に衰退させたイギリス海軍は、やがて世界制覇への道を歩み、大英帝国の基礎を築くことになります。
「革命」とは何か:名誉革命の再評価
三大革命との比較
世界三大革命(アメリカ独立革命、フランス革命、名誉革命)の中でも、名誉革命は異質です。アメリカ・フランス革命が王政を打倒し共和制・議会制へ転換させた「体制転覆」であったのに対し、名誉革命ではステュアート朝からオラニエ朝への王朝交代にとどまり、外見上の政治体制は大きく変わりませんでした。
語源の「revolve(回転・一周)」が示す「体制の徹底的な転覆」という定義で見れば、明治維新こそが革命であり、名誉革命は革命と呼ぶにふさわしくない、との見方もあります。
イギリス史における真の意義
しかし、イギリス国内史の文脈では、その意義は計り知れません。古代ローマ以来の議会伝統を法的に確定させ、三王国戦争から続く党派対立を政党政治へと昇華させ、やがて内閣制度を生み出す土台を作ったからです。「国王が法の下にある」という法の支配の原則を、流血を最小限に抑えて制度化した点において、名誉革命は「保守的な革命」、あるいは「未完の革命」として、現代の議会民主主義に連なる画期的な事件だったと言えるでしょう。