古いポーランドには不条理な出来事が尽きませんでした。その代表格といえるのが騎兵部隊の編成です。公式に「100名」とされた部隊に、100人の騎手が揃っていたことは一度もありませんでした。良い場合でも90名ほど、ひどいときにはわずか20〜25名しか実在しなかったのです。
歴史書を読んでいると、「ある部隊はX人分の給料を支給されていた」「定員はY名だった」といった記述によく出会います。素朴に考えれば、人数は人数。数字をそのまま受け取るのが大多数の書き手の姿勢です。その結果、私たちの目には、勇敢なポーランド軍が実際よりもずっと大所帯に映ってしまうのです。
ところが、歴史家ラドスワフ・シコーラは著書『フサリアの異色の戦いと突撃』の中で、こう指摘しています。たとえば「100名建て」のフサリア・ロタ(中隊)とは、国庫から100人分の給料が支払われる部隊のことであって、実際に100人の騎兵が所属していたわけではないのです。
理由その1:将校たちの「盲馬」
第一の要因は、将校たちが完全に合法的な形で自分用の追加給料枠を確保していたことです。これは「盲馬(ブラインド・ホース)」などと呼ばれました。17世紀には給与総額の10%がこの目的に充てられ、時代が下るにつれてその割合はどんどん膨らんでいきます。その結果、少なくとも10人に1人の騎手は、帳簿の上にしか存在しないことになったのです。
では、定員100名のフサリア部隊には、実際に何人の騎手がいたのでしょうか? 100人だと思いますか? そんなことはありません。時にはわずか25人のフサリアしかいなかったのです。
理由その2:損耗は一切帳消しに
第二の要因は、支給額が実際の兵員数にほとんど結びつかなかったことです。特に国庫の支払いが滞っている場合は顕著でした。負傷者、病人、戦闘不能者、戦死者、脱走兵――計算の上では、彼らはまったく考慮されなかったのです。長期の遠征を終えた後、100騎建てのフサリア部隊に残っていたのが20騎だけでも、公式文書の上では相変わらず「100名の部隊」のままだったというわけです。
数字が物語る実例
具体例を挙げましょう。1660年のカトゥシチャミの戦いには、定員285人分の2個旗(バナー)が参加しました。しかし、その戦列に並んでいたのは……150人足らずのフサリアでした。
同様に、1655年のドマナミの戦いでは、ポーランド騎兵の定員は2000〜2500騎。ところが実際の兵力は、わずかに1000人を超える程度でした。
同じ年のモギレフ(現ベラルーシ)での市街戦は、極端なケースです。3個旗あわせて定員500騎のうち、戦いに参加できたのは150騎のみ。公式定数のわずか30%です!
おわりに
大きな数字は、少なくとも紙の上では印象的です。しかし考えてみれば、満身創痍にまで消耗したポーランド・フサリアの部隊でさえ、幾度となく戦場で勝利を収めてきた――その事実のほうが、よほど誇らしいのではないでしょうか。
参考文献
Radosław Sikora『Niezwykłe bitwy i szarże husarii(フサリアの異色の戦いと突撃)』Erica出版局、2011年。