ヨーロッパの歴史

30対1の奇襲作戦!国内軍「ロボット」部隊が占領下コンスキエで成し遂げた伝説の夜襲

開戦4周年の夜、人々は歓喜に沸いていた

1943年9月1日、ドイツに占領されたポーランドにとって、この日は極めて悲しい記念日だった。開戦からちょうど4年が経過し、戦争の終わりなどまだ見えていなかった。ところがコンスキエでは、絶望する者はほとんどいなかった。むしろ人々は歓喜の興奮に打ち震えていたのだ。その理由こそ、前夜に行われた国内軍(Armia Krajowa)の夜間作戦にあった。

何もないように見える小さな町

コンスキエは、シフィェントクシスキエ県にある小さな郡都である。現在では特に目立つ存在ではない。だが第二次世界大戦中は話が違った。町とその周辺地域は、独立派パルチザンの活動が異常に活発な地帯だったのである。

1943年7月末、近郊のコネツィの森に拠点を構えたのが、国内軍第2パルチザン支団「ポヌリ」だった。部隊を指揮していたのは、物静かな少尉ヴァルデマル・シュヴィエツ「ロボット」。現地に到着すると直ちに破壊活動を開始した。もともとこの地域で問題を抱えていた占領軍にとって、これは看過できない事態だった。

30対1の奇襲作戦!国内軍「ロボット」部隊が占領下コンスキエで成し遂げた伝説の夜襲

密告者が400人の愛国者を売った

状況を掌握するため、8月20日、ドイツ軍はコンスキエで大規模な包囲捜索を実施した。千人以上の憲兵が町を包囲し、ゲシュタポが大量検挙に乗り出したのである。

密告者の情報をもとに、400人以上が拘束された。カツペル・シレジニスキ著『Cichociemni――ポーランド破壊工作の精鋭』によれば、ゲシュタポのリストには次のような重要人物の名が並んでいた。

管区司令部グループは壊滅した。元管区長で、のちにキェルツェ管区国内軍自動車化担当将校となったヤン・ルシノフスキ、工兵少尉ヨゼフ・サペット、そして「ミャスト」組織の指揮官スタニスワフ・ストシェミェチニ少尉らが、その筆頭であった。

逮捕者の大半はアウシュヴィッツ強制収容所へ送られた。価値ある情報を持っている可能性のある者たちは、ラドムのゲシュタポ本部へ移送された。

幸運だったのは、「ロボット」の部下たちが一人も捕まらなかったことだ。彼らは8月19日から20日の夜にかけて別の作戦を実行していた。町で起きた出来事を知ったシュヴィエツ少尉は、ドイツ側の「成功」がポーランド人の抵抗精神を折っていないことを証明することを決意した。

30対1の奇襲作戦!国内軍「ロボット」部隊が占領下コンスキエで成し遂げた伝説の夜襲

現在、人口数千人の静かな郡都にすぎないコンスキエ。しかし第二次世界大戦中、この町では数々の出来事が起こったのである。

大胆不敵な計画

やるからには、目を見張るような作戦でなければならなかった。実際、計画は野心的そのものだった。シュヴィエツは上官のヤン・ピヴニク「ポヌリ」中尉への報告書にこう書いている。

ドイツ側に破壊工作が町の外でも行われていると確信させ、郡民の士気を高め、憲兵隊を威圧するため、私はコンスキエへの急襲を決意した。

この攻撃にはもう一つの目的があった。「我が方将兵に対し、憲兵隊の士気と戦闘力の低さ、そして白兵戦において我々が彼らを上回ることを実証する」のである。

シレジニスキが正しく指摘するように、こんな計画を思いつけるのは、真にウーラン(ポーランド軽騎兵)的な空想の持ち主だけだ。シュヴィエツにそれが欠けているはずがなかった。彼は以前、第10機甲騎兵旅団に勤務していたのだから。

しかし空想だけでは足りない。全作戦の完璧な計画が必要だった。なにしろ「ロボット」部隊の兵力はわずか64名。一方、マレク・イェディナクの調査(『Robotowcy 1943――国内軍第2パルチザン支団「ポヌリ」モノグラフ』所収)によれば、コンスキエと周辺地域には約1800人のドイツ兵とウクライナ人補助兵が駐屯していた。

つまり兵力差はおよそ30対1! だが、鍛え抜かれた静寂無声部隊(Cichociemni)出身者たちに、この不利は何の抑止にもならなかった。綿密な作戦計画が策定され、攻撃は8月31日夜から9月1日未明にかけて実施されることになった。もちろん、この日程は偶然ではない。

闇の中の攻撃と華々しい成功

午後10時少し前、シュヴィエツ少尉と部下たちは配置につき始めた。作戦全体で最も重要な要素は、言うまでもなく奇襲だった。そこで部隊はいくつかの班に分けられ、同時に打撃を与えることになった。これにより、数十人ではなく数百人のパルチザンが参加しているという印象を与えられるはずだった。

30対1の奇襲作戦!国内軍「ロボット」部隊が占領下コンスキエで成し遂げた伝説の夜襲

作戦には3個小隊が参加し、それぞれ明確な任務を負っていた。第1小隊は東側の関所で待機し、23時50分から翌2時まで続く予定の行動の開始を待った。もう一つの約20名の班は野原を抜けて町の北端へ進み、機関銃射撃で憲兵隊の兵舎を封鎖する任務を帯びていた。

そして「ロボット」自身は第3小隊を率いて変電所へ向かった。町全体の電源を断つためである。これは他の兵士たちにとっても、開始の合図となった。

すべては計画通りに進み、真夜中の数分前、コンスキエは闇に包まれた。パルチザンたちが待ち望んでいた瞬間だ。彼らはただちに憲兵隊兵舎へ発砲し、ドイツ側を撹乱した。駐在所の指揮官は、町の近郊に駐屯する東方部隊(オストレギオン)小隊を呼ぼうとした。

だが彼は知らなかった。電話線はすでに事前に切断されていたのだ。さらに受話器に手を伸ばした瞬間、流れ弾が彼の手を砕いた。部下たちの反撃もことごとく失敗し、数名のドイツ兵が命を落とした。

その間に、シュヴィエツ少尉と残りの国内軍兵士は協同組合「スポウェム」の倉庫へ向かった。そこに保管された物資こそが目的だった。倉庫は厳重に警備された刑務所に隣接していたため多少の難易度はあったものの、短時間の銃撃戦の末、ポーランド側が状況を制圧。衣料品、繊維製品、食料を鹵獲したトラックに積み込み始めた。

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これが戦前のヴァルデマル・シュヴィエツである。当時の彼は、自らが担うことになる英雄的な行動について、まだ知る由もなかった(出典:パブリックドメイン)。

密告者への容赦なき制裁

変電所を制圧すると同時に、3人編成の処刑班も動き出した。指揮を執ったのはスタニスワフ・ヤニシェフスキ「デヴァイティス」。任務は、特別法廷が死刑を宣告した5人の密告者を粛清することだった。すべての刑は執行された。

ほぼ2時間に及ぶ戦闘の後、国内軍は町からの撤退を開始した。一行は南東へ、チェルヴォヌイ・モスト(赤い橋)の村を目指す。そこからコネツィの森まではあと一歩、安全な隠れ家が待っていた。

計画は100%達成された。攻撃側の死者はゼロ。必要不可欠な物資を確保し、同時に危険な密告者5人を粛清した。さらにドイツ側は憲兵6名を失い、この作戦が与えた衝撃は文字通り電撃的だった。

30対1の奇襲作戦!国内軍「ロボット」部隊が占領下コンスキエで成し遂げた伝説の夜襲

国内軍「ポヌリ」支団の将校たち。右端がヴァルデマル・シュヴィエツ「ロボット」少尉。写真はシレジニスキ著『Cichociemni――ポーランド破壊工作の精鋭』(SIW Znak、2012年)より。

それを最も雄弁に物語るのが、総督府軍政地区司令部宛ての報告書だ。そこにはこう記されていた。「8月31日夜、数百名の匪賊がコンスキエの町を襲撃した」と。

シレジニスキは著書の中でこう述べている。「コンスキエのような町を制圧するほど困難な作戦は、西欧におけるSOE(英特殊作戦執行部)の作戦には類例がない」と。ヤン・ピヴニク「ポヌリ」中尉は、自分の部下を誇りに思ってよかったのだ。