ヨーロッパの歴史

ビザンツ帝国の大胆な奇襲──イスラム世界の心臓部を突いたダミエッタ遠征

ビザンツ帝国の大胆な奇襲──イスラム世界の心臓部を突いたダミエッタ遠征

9世紀、ビザンツ(東ローマ)帝国とアラブ勢力との戦争は終わることなく続いていた。一般には、この時代の地中海ではアラブ側が優位に立っていたとされる。シチリア島の一部を占領し、さらに戦略的に極めて重要な大島クレタまでも手中に収めたムスリム(イスラム教徒)たちは、地中海における支配圏を大きく拡大していたのである。

こうした状況の中、ビザンツ帝国は敵の本拠地のど真ん中――エジプトの港湾都市ダミエッタ――において、大胆きわまる強襲作戦を計画し、実行に移した。

クレタ包囲網を敷くという新戦略

クレタのアラブ勢力は、主としてエジプトを経由してアッバース朝カリフからの支援を受けていた。したがってビザンツにとって、この地域への打撃は理にかなった、そして何よりも望ましい目標だった。帝国はクレタ奪還を試みてきたものの失敗に終わっており、ここで戦略の転換を図る。その狙いは、まずエジプトとの連絡線を断ち、北アフリカ沿岸に設けられたクレタ首長国の補給基地を破壊することで、クレタを孤立させることにあった。

著名なビザンツ研究者ヴァシーリエフによれば、ダミエッタはまさに「クレタの武器庫」であった。この武器庫を破壊しなければならない。アラブ側の史料によれば、皇帝ミカエル3世は地中海のアラブ側3つの目標に向けて、総数300隻からなる3個艦隊の派遣を命じたという。他の2つの目標が何であったかは不明だが、その一つがダミエッタだった。

襲撃の開始

ダミエッタへ向かったのは、戦士5,000人を乗せた85隻のビザンツ艦隊である。アラブ側の記録に残る指揮官の名は「イブン・カトゥナ」。これは皇帝ミカエル3世の側近にして腹心である貴族(パトリキオス)ダミアノスに比定されている。ダミアノス以外の名前も提案されてはいるが、確たる根拠は乏しいようだ。興味深いことに、ビザンツ側の史料はこの作戦についてほとんど言及していない。

当時、エジプトの海軍は衰退の一途をたどっていた。沿岸防備も同様で、海岸部の要塞の多くはすでに放棄されていた。クレタやシチリアでの成功の後、ムスリムたちの間には根拠のない安心感が蔓延していたのである。とはいえ、ダミエッタには強力な守備隊が配置されていた。ところが853年5月22日、その守備隊はラマダン(断食月)の祝祭に参加するため、街を離れてしまう。

ビザンツ軍はこの隙を見逃さなかった。まさにその日、正確な情報を握っていたらしいダミアノス率いる艦隊が港の前面に現れた。電光石火の動きで兵士たちが上陸すると、あっという間に街は制圧された。抵抗はほとんどなかったという。彼らはただちに倉庫へ駆け込み、クレタ宛ての膨大な量の武器や補給品を発見した。これらはすべて鹵獲され、コプト派キリスト教徒を含む多くの女性たちとともに船へと運び込まれた。

徹底的な破壊、そして東へ

住民の大半がすでに街を捨て去っていたダミエッタは、略奪され、炎に包まれた。ビザンツ軍は5月23日までダミエッタに留まり、その後、廃墟だけを残して帆を上げた。それだけでは飽きたらず、ダミアノスの艦隊はさらに東へ進み、堅固な要塞ウストゥンにも攻撃を仕掛け、これも陥落させた。要塞内にはクレタ宛ての攻城兵器が多数保管されており、当然ながらこれらもことごとく焼き払われた。

この遠征はムスリム世界に大きな衝撃と恐怖を与え、歴史上最も成功した軍事作戦の一つとして評価されている。