ヨーロッパの歴史

クナクサの戦い(紀元前401年)――1万3千のギリシャ傭兵がペルシア大軍を打ち破った歴史的勝利

クナクサの戦い(紀元前401年)――1万3千のギリシャ傭兵がペルシア大軍を打ち破った歴史的勝利

紀元前401年にバビロン近郊のクナクサ平原で行われた戦いは、世界史における最も重要な衝突の一つに数えられる。同時に、古代ギリシャ人がペルシアに対して収めた最大級の勝利でもあった。

王位を賭けた遠征

弟キュロス(小キュロス)は、兄アルタクセルクセス2世からペルシアの王座を奪うことを決意し、強力な軍事力を結集して進軍を開始した。クセノポンの記録によれば、キュロス軍の総勢は約10万人。その中でも際立っていたのが、通称「ミュリオイ(万人隊)」と呼ばれた1万3千人のギリシャ人傭兵部隊である。

ミュリオイは、悲惨な結末を迎えたペロポネソス戦争を経験した古参兵たちで構成された精鋭部隊だった。編成は重装歩兵(ホプリテス)11,500人、軽装歩兵(ペルタスト)1,000人、散兵(プシロイ)500人、そして少数の騎兵。兵士たちはギリシャ全土から集まった。重装歩兵の主力はペロポネソスとボイオティア出身者、ペルタストはトラキア人、プシロイはクレタ島民で、弓・小型の盾・短剣で武装していた。

重装歩兵は古典的なファランクス(密集陣形)で戦った。ミュリオイの指揮官はスパルタの将軍クレアルコスであり、彼は部隊の戦術をスパルタ式の軍事教義に適合させた。

運命との対峙

小アジアを横断したキュロス軍はバビロンへと向かった。軍はユーフラテス川の灌漑用水路と、アルタクセルクセス軍が掘らせた深い壕を越え、前進を続けた。行軍の途上、地面には至る所に人馬の足跡が残されており、王軍が撤退しつつある証しだった。

三日間の行軍を続けたある朝、突然、キュロス軍の騎馬斥候が駆け戻り、王軍が迫っていると叫んだ。それは紀元前401年9月3日の早朝のことだった。合図とともに軍は行軍隊形から戦闘隊形へと移り、兵士たちは武装し、それぞれの配置についた。

ギリシャ軍は右翼に展開し、ユーフラテス川の河床によって側面を守られた。最右翼にはギリシャのペルタストとパフラゴニア騎兵1,000人が置かれ、その内側にファランクスが並んだ。右翼をクレアルコスが、中央をプロクセノスが、左翼をメノンが指揮した。

中央と左翼はペルシアおよび従属国の部隊が形成し、中央には600人の親衛精鋭騎兵を率いたキュロス自身が陣取っていた。親衛騎兵は全員、胸甲・兜・そして鞍に取り付けられ騎手の脚を守る特殊な防具を身につけていた。ただしキュロスだけは、味方から容易に見分けられるよう兜を拒んだ。

この配置を見るだけで、キュロスの作戦はおのずと明らかになる。ギリシャ軍が敵左翼を打ち破れば、自軍は敵中央――そこには兄アルタクセルクセス自身もいる――を側面から圧迫し、精鋭親衛隊の突撃と相まって崩壊させられるはずだった。だがキュロスにとって勝利とは、敵を敗走させるだけでは足りなかった。兄を殺さねばならなかったのである。

最初のギリシャ軍突撃

布陣を整えたキュロス軍が敵を待つと、午後になってアルタクセルクセスの巨大な軍勢が南から現れた。「白い砂塵の雲が現れ、一時間後には平野の広範囲にわたって黒く立ち込めた」と、大軍の接近を目の当たりにしたクセノポンは記している。

ティッサフェルネスが指揮する極左翼には、白いギリシャ製亜麻の胸甲をまとった重装騎兵が並び、その隣には大型の盾「ゲラ」を持つゲロフォロイたるペルシア兵、さらにギリシャ式の大盾と槍で武装したエジプト兵が控えていた。後方には他の騎兵と弓兵が続き、各民族は独自の隊形で戦列を組んだ。戦線最前面には鎌戦車が配されていた。

自軍をはるかに上回る長さの敵戦線を前に、キュロスは考えを変え、クレアルコスに梯子状スに梯子状隊形で敵中央を攻撃するよう命じた。しかし経験豊富なクレアルコスは、河床の安全を捨てて中央へ向かえば、薄くなる戦線が崩れ、ファランクス全体がティッサフェルネスの騎兵に包囲される危険があると考え、「ご心配なく、私自身が戦い方を心得ております」と答えた。

ついにキュロスのアジア系部隊が前進を開始した。だがギリシャ軍はまだ動いていなかった。クレアルコスが「ゼウスよ、救いと勝利を」と唱えると、掛け声は口から口へ全員に伝わり、再び自分の番が回ったとき、ギリシャ軍は前進を始めた。

両軍の距離は600~800メートルほど。ギリシャ兵たちは速足で進みながらペーアン(凱歌)を歌い、距離が縮まると雄叫びを上げ、槍で盾を打ち鳴らして凄まじい音を響かせた。

この光景を目の当たりにし、弓の有効射程(150~200メートル)に入る前に、対面の異民族兵たちは背を向けて逃げ出した。鎌戦車の操縦士たちまで放棄して逃げ、恐怖に狂った馬に引かれた鎌戦車は暴走してペルシア歩兵を次々となぎ倒した。一部は制御不能のままギリシャ軍に向かったが、ギリシャ兵たちは隊列を開き、無傷で通り抜けさせた。こうしてギリシャ軍は、矢で負傷したわずか一名という損害のみで、対峙する敵を粉砕したのである。

キュロスの死

ところが、ギリシャ軍が文字通り敵を蹴散らしていたその頃、戦場のもう一方では事態がキュロスに有利には進んでいなかった。左翼は敵の優勢に押されて後退し、キュロスはギリシャ軍の敗北を恐れて、600の精鋭騎兵を率いて南からアルタクセルクセスの6,000騎兵に突撃し、これを打ち破った。

しかし勝ちに乗った騎兵たちは敗走する敵の追撃に向かい、キュロスの傍らにはわずかな部下――「食卓を共にする者たち」――しか残らなかった。キュロスは突然、兄の姿に気づいた。「見よ、あれが奴だ」と告げると、彼はアルタクセルクセスに突進し、胸骨を突き刺して胸を貫く深手を負わせた。だがその瞬間、キュロスは目の下に投げ槍を受けた。深手を負った主君を守ろうと、わずかな部下たちは殺到した。

続く乱戦の中で、彼らは皆、主君とともに倒れた。勝者たちはキュロスの頭部と右手を切り落とし、アルタクセルクセスの軍はキュロス軍の野営地を占領した。生き残った異民族兵はアリエウスに率いられて後退し、戦場から25キロ離れた地点で停止した。

その頃、野営地内では守備のギリシャ兵とアルタクセルクセスの兵士との間で激戦が勃発していた。敵はキュロスの寵姫二人のうち一人を捕らえたが、もう一人は脱出に成功し、裸身でギリシャ兵の許へ走って救助された。ギリシャ兵たちはしばらく敵の圧力に耐えたが、ますます増えゆく異民族兵を前に、クレアルコス率いる主力の方へ退いた。その間にアルタクセルクセスは、ギリシャ軍が対面の兵力を撃破したとの報告を受け、勝ち続けるギリシャ軍への再攻撃のため自軍の再編成を命じた。

二度目のギリシャ軍突撃

しかしクレアルコスはファランクスを反転させ、敵の新たな攻撃を待ち構えた。同時に、アンフィポリス出身のエピステネス率いるペルタストたちは、極めて巧妙な戦術で敵精鋭軽騎兵に甚大な損害を与えた。敵騎兵の突撃を受け入れる際、ペルタストたちは隊列を開くか地面に伏せ、騎兵が通り過ぎた瞬間に至近距離から槍や剣で騎手を打ち倒したのだ。この戦法によりペルタストは一人も傷つかず、騎兵たちは敗走した。

ついにティッサフェルネスの部隊は王軍の残存部隊と合流し、全軍が一丸となってギリシャ軍に向かってきた。今やギリシャ人は、わずか13,000人でアルタクセルクセスの無数の大軍と全力で戦うことになった。

歴戦の勇士クレアルコスは、この危急の瞬間にこそ真価を発揮した。背中を守れるよう可能な限り川岸近くに陣取らせ、わずかな斜面移動で両翼をもカバーできるようにしたのである。一方ペルシア軍は伝統的な隊形のまま、不屈のギリシャ軍に向かって前進した。

だがギリシャ軍は待たなかった。ペーアンを歌いながら敵に突進したのである。今度は異民族兵がさらに早く逃げ出し、ギリシャ軍がこれを追撃した。精鋭ペルシア騎兵までもが逃げ出し、ギリシャ重装歩兵の猛攻に立ち向かうことはなかった。

勝利を収めたギリシャ軍は丘の麓で夜の陣を敷き、丘の頂上には衛兵を配置した。日没直前、偵察に出ていたシュラクサイのリュキオスが喜んで戻り、「敵は潰走しております」と報告した。古代ギリシャ人による最大級の勝利の一つ――そして最も誤解されてきた勝利――が、こうして成し遂げられたのである。