
「本当に恐ろしく強い!」——古代ローマ史において類まれな軍事的天才として名を馳せたのが、グナエウス・ポンペイウス(大ポンペイウス)です。今回は、その波乱に満ちた生涯と、後世に残された本当の評価について詳しく見ていきましょう。
スッラ派の代表として台頭
ポンペイウスは由緒ある名門貴族の出身ではなく、新興の富裕階級である騎士階級(エクイテス)の生まれでした。父はローマ近郊に広大な土地を所有し、法務官(プラエトル)、さらには最高位の執政官(コンスル)を務めた経験もある有力者でした。しかし、その家柄ゆえに、平民派のガイウス・マリウスによる粛清の標的にされてしまいます。
マリウスはまもなく死去しますが、平民派の政権は続き、若きポンペイウスはその魔の手から逃れるために身を隠して過ごしました。
やがて、閥族派の代表格であるスッラがローマへ進軍すると、彼はこれに加わり、平民派の軍団を打ち破る華々しい活躍を見せます。スッラに一目置かれて厚遇されるようになりましたが、その一方で「今の妻と離婚し、スッラの親戚の娘と再婚せよ」と命じられます。
これは、敵対する平民派だったユリウス・カエサルが、命を助ける条件として妻との離婚を求められても逃亡を拒んだことと好対照だと言えるでしょう。
ポンペイウスは軍事面では天才でしたが、それ以外の面では、生涯を通じて明確な信念や主張を持たない人物でした。いわば「能力は高いが信念のない東大生」のような存在だったのかもしれません。
スッラが平民派の一掃作戦を展開すると、ポンペイウスはシチリアと北アフリカへ派遣され、蜘蛛の子を散らすような勢いで平民派の残党を蹴散らしました。これらの地域はローマの穀倉地帯とも呼べる場所で、ローマ全土の小麦生産量の3分の1を占める重要地域だったのです。
「ポンペイウス・マグヌス」の異名
ポンペイウスの強さは、長いローマの歴史の中でも前例のないものでした。そのため、彼は兵士たちから「インペラトール(凱旋将軍)」と呼ばれ、スッラからは「マグヌス(偉大なる者)」の称号を贈られます。
戦功によりローマで凱旋式が挙行されたとき、彼はわずか25歳でした。この年齢での凱旋式はローマ史上唯一無二の最年少記録です。
ローマ社会は年長者を尊重する風潮があり、公職就任資格は通常30歳以降に得られ、最高司令官である執政官(コンスル)への立候補は40歳になっても認められませんでした。
それにもかかわらず、ポンペイウスは25歳にして、公職に就く前から凱旋式を挙げたのです。建国から約700年を経たローマにおいて、最高の軍事的天才にして最高の武勲と言えるでしょう。
スッラの死後もその勢いは衰えるどころか、枠が外れたかのように加速していきます。
スペインに残る平民派を掃討したポンペイウスは、次にギリシャを荒らし回っていた海賊の討伐へと向かいます。
途中でスパルタクスの反乱を鎮圧したという話もありますが、クラッススが鎮圧したのかポンペイウスが鎮圧したのかは判然としないため、本記事では当面クラッススの手柄としておきます。さもなければ、クラッススの手柄が完全に消えてしまいますので……。
ギリシャの海賊たちは凶悪かつ組織的で、若き日のユリウス・カエサルも捕らえられ、身代金を要求されたほどでした(もっともカエサルはその後、自費で艦隊を組織し、自力で海賊を討伐しています)。
海賊側にポンペイウスの相手をする道理はなく、これもまた瞬く間に決着。その後、ギリシャはポンペイウスの勢力圏となりました。
続いて、小アジアのポントス王ミトリダテスをも疾風のごとく鎮圧。ミトリダテス戦争を終結させると、そのままシリアへ進んでセレウコス朝の領域を支配下に収め、ローマの属州としました。
こうしてポンペイウスは、わずか10年でシチリア、北アフリカ、スペイン、ギリシャ、小アジア、シリアという広大な地域を征服したのです。
その勢いはアレクサンドロス大王に匹敵すると言っても過言ではありません。「ポンペイウス・マグヌス」の名は伊達ではないのです。
ローマで挙行された凱旋式は空前の規模と華やかさを誇り、ローマは名実ともに世界国家へと歩み出しました。
元老院はポンペイウスの独裁を警戒しましたが、彼はローマ入城前に軍団を解散させ、独裁者となる意志がないことを示します。その結果、ポンペイウスは国家の支配権を握ることなく、一生を軍人として過ごすことになったのです。
第一回三頭政治
当時の誰もが「カエサルとポンペイウスが手を組むことは決してない」と考えていました。何しろカエサルは、ポンペイウスの妻との不義を働き、離婚の原因を作った男だったからです。
同様に、「ポンペイウスとクラッススの提携もあり得ない」と思われていました。クラッススはポンペイウスの軍事的才能に嫉妬し、ポンペイウスも心の底からクラッススを見下していたからです。
しかし、この三人は手を組みました。
それが紀元前60年の第一回三頭政治。世界史の教科書に必ず登場する有名な政治同盟です。
カエサルの一人娘ユリアがポンペイウスと結婚し、両者は義理の父子関係となります。
三頭政治は元老院と激しく対立しましたが、ポンペイウスは愛する妻との生活を選んだのか、すっかり骨抜きになり、軍事行動を起こすことはありませんでした。強いて言えば、ポンペイウス劇場の建設を始めた程度です。
やがてカエサルはガリア(現在のフランス)遠征へ、クラッススはパルティア遠征へと旅立ちます。
この頃、ポンペイウスはヒスパニア総督となり、配下をエジプトへ送ってプトレマイオス12世の即位に協力させました。
しかしやがて、クラッススはパルティアとの戦いで戦死し、カエサルの娘ユリアも病で亡くなります。
妻を失った後のポンペイウスは心変わりし、ガリアから離れられないカエサルに代わって元老院に受け入れられることになりました。こうして三頭政治は完全に崩壊します。
ポンペイウスを味方につけた元老院は勢いづき、「元老院最終勧告」によってカエサルを追い詰めました。軍団を解散しなければ「国家の敵」とみなす、というものです。しかしカエサルは軍団を率いてルビコン川を渡り、ローマへの進軍を開始します。
まさに、剣が投げ込まれた瞬間でした。
カエサルを圧倒しながら……
カエサルの接近を知った元老院議員たちは一目散に逃げ出しました。ポンペイウスは地盤のあるギリシャへ向かい、カエサルとの決戦に備えます。もし彼が単独で判断・行動していたなら、歴史は大きく変わっていたかもしれません。
フランスの英雄ナポレオンは「真に恐ろしいのは有能な敵ではなく、無能な味方だ」という言葉を残していますが、カエサルとの内戦こそまさにそれだったのでしょう。
数的優位は圧倒的にポンペイウス側にありました。数以外のあらゆる面でも、ポンペイウスは有利でした。
カエサルはポンペイウスに和平を求めましたが、拒否されます。
二人の英雄はギリシャのドゥラキウムで激突し、ポンペイウスが圧勝しました。このまま追撃すれば勝機は十分ありましたが、撤退先に伏兵があると読んだポンペイウスは追撃を見合わせます。
理由はそれだけではありません。
カエサルの軍は精強ながら、補給線が確立されていませんでした。ギリシャはポンペイウスの勢力圏であり、カエサルが長期の軍団維持に耐えられないことを彼はよく理解していました。放置すれば、カエサルは自ずと不利になる。一方、ポンペイウスの兵士の多くは新兵で、訓練も熟練度もカエサルの精鋭に及びません。したがって、持久戦こそが勝利への道だったのです。
しかし、そこまで見抜いていたのはポンペイウスだけでした。
ドゥラキウムの勝利に浮かれる元老院は事情が違いました。議員たちは、この好機にカエサルを叩けば勝てると確信していたのです。
ポンペイウスは有能ですが、信念がありません。周囲の意見には上手に従いますが、自分自身で最終判断を下すことができない。現代のエリート層に通じる性質だと言えるでしょう。
ポンペイウスは元老院議員たちの声に従いました。そして、それが致命傷となったのです。
天下分け目の戦い!ファルサルスの会戦と英雄の最期
ポンペイウス側(元老院側):約6万人(うち騎兵7千)
カエサル側:約2万3千人(うち騎兵2千)
元老院議員でなくても、カエサルの勝利を予想する人はいないでしょう。歴史上、数的不利を覆した戦いは多々ありますが、それは基本的に指揮官の能力差、軍の練度差、あるいは第二次ポエニ戦争におけるハンニバルのような騎兵力の差といった、特別な事情があった場合です。
ファルサルスにおいて、ポンペイウス側はあらゆる面で優勢でした。
しかし、負けたのです。
敗因は思いもよらない複雑な要因に見えて、実に単純なものでした。
ポンペイウスは敗北しました。それが彼の人生で唯一の敗北でした。
しかしその唯一の敗北こそが、彼の人生のすべて、そして後世の評価のすべてを決めてしまったのです。
ローマ史上最大の英雄は、何世紀にもわたって嘲笑され続けることになります。
勝てば官軍、負ければ賊軍。
エジプトで再起を図ろうとしたポンペイウスは、カエサルとの対立を恐れたエジプト側の人間によって殺害されます。
彼の首はカエサルのもとへ届けられました。カエサルはそれを見て、静かに涙を流したと言われています。
「寛容のカエサル(クレメンティア・カエサル)」と呼ばれた彼であれば、ポンペイウスが何度敵対しようとも、最終的には許したことでしょう。
ポンペイウスはカエサルにとって、愛娘の夫であり、最大のライバルであり、そして何よりも、かけがえのない友人だったのです。