
「大隊とは、自らの手段のみによって任務を受諾・遂行しうる独立した戦闘集団である」――これが当時の公式定義である。しかし、1940年のギリシャ陸軍においては、歩兵大隊が迫撃砲や対戦車兵器を欠いていたため、この定義は必ずしも現実に適合しなかった。
大隊の編制
歩兵大隊は、大隊本部、3個歩兵中隊、1個機関銃中隊、および戦闘輸送部隊から構成されていた。重火器としては重機関銃12挺と軽機関銃36挺を保有した。3個歩兵中隊が機動要素として、機関銃中隊が火力支援要素として機能する体系であった。
管理班には書記、軍医、観測員、伝令などが属し、副官または少尉がこれを指揮した。大隊長たる少佐の補助役として大隊副官(幕僚)大尉が置かれた。各中隊は4個小隊からなり、各小隊はさらに3個分隊に分割されていた。
大隊長の役割
大隊長は2ないし3つの平行・収束・発散方向に対して行動でき、地形と敵陣地の堅固さに応じて、機関銃中隊による直接支援を付与しながら各中隊の戦力配分を調整することが可能であった。大隊の理論上の定員は900名を超えた。
ダバキス大佐によれば、大隊長とは「戦闘に参加する歩兵部隊という楽器群の真の指揮者であり、所望の任務に応じてこれを指揮する存在である……かくして彼は火と運動の真の結合者となり、歩兵の真の指導者となる」という。
大隊長は単に指揮するだけでなく、将校と兵卒を鼓舞する存在でもなければならなかった。とりわけ正面幅2km超――通常条件下で歩兵大隊が防御において担いうる最大正面幅とみなされていた――に及ぶ広正面の戦闘において、その役割は決定的に重要であった。ギリシャの大隊は、上級連隊の監督どころか支援も十分に得られないまま、不良の通信網と補給難の中で独立行動を強制されることが多かったからである。
防御正面を表す当時の用語
当時の用語法では、師団は正面「地区(セクター)」を、連隊は「部分地区(サブセクター)」を、大隊は正面「区画(レーン)」を、各中隊は「小区画(サブレーン)」を受け持った。
戦術的展開
歩兵大隊は、状況に応じて前面に1個中隊を置く正三角形隊形、あるいは前面に2個中隊・後方に予備1個中隊を置く逆三角形隊形で展開した。状況が要求すれば全中隊を第一線に投入することもあったが、その場合でも常に最低1個ウラマ(半中隊=2個小隊相当)以上の予備を保持することが原則とされた。
さらに、歩兵大隊のほかに、1940〜41年のギリシャ陸軍は多数の機関銃大隊を保有していた。これらは「陣地機関銃大隊」と「機動機関銃大隊」に区分され、それぞれ2〜3個機関銃中隊と1個歩兵中隊を擁していた。
連隊の編制
歩兵連隊は大佐または中佐が指揮し、連隊本部、本部中隊、3個大隊、砲・迫撃砲中隊および輸送部隊を擁した。連隊本部は中佐または少佐が統括し、連隊副官、担当師団との連絡将校、連隊衛生主任がこれに含まれた。
本部中隊は、指揮小隊、連絡・通信小隊、騎乗斥候小隊、工兵(架橋・作業)小隊、衛生要員および戦闘輸送部隊からなった。指揮小隊には書記、馬丁、伝令、連隊旗手が所属した。
通信小隊は無線電信班、有線電信班、光学通信班、観測班を備えていた。騎乗斥候小隊は下士官が指揮し、騎兵ウラマに相当した。工兵小隊は築城班、爆破班および戦闘輸送部隊から構成された。
ギリシャ歩兵連隊の火力支援中隊は、65mm山砲2門を有する砲小隊と、81mm迫撃砲4門および対応する輸送具を有する迫撃砲小隊からなっていた。自動火器については重機関銃36挺、軽機関銃108挺を保有し、さらに擲弾筒(擲弾発射器)144門を備えていた。歩兵連隊1個の兵力は将兵約3,200名、駄獣777頭であった。
連隊は3個大隊を機動要素とした。しかし、わずか4門の迫撃砲と2門の軽砲だけという支援梯団は、同時代の他国陸軍と比較して極めて貧弱であった。
イタリア軍との比較
イタリアの歩兵連隊も同様に3個歩兵大隊と1個重火器中隊を擁した。その重装備は、ギリシャ軍と同型の81mm迫撃砲6門、ブレシア45mm軽迫撃砲54門、重機関銃24挺、軽機関銃108挺であり、迫撃砲の数ではギリシャ軍を大きく上回っていた。
1940年のギリシャ陸軍の総戦力
1940年、ギリシャ陸軍は歩兵連隊56個、機関銃36挺装備の機動機関銃大隊4個、機関銃24挺の機動機関銃大隊1個、および機関銃24挺の陣地機関銃大隊4個を展開した。このうち第2/39、第3/40、第5/42連隊は、伝統ある民族衣裳で知られる精鋭エヴゾーン(山岳猟兵)連隊であった。