背景:モロジーニの野望とドイツ人傭兵
1685年、フランチェスコ・モロジーニ率いるヴェネツィア軍はペロポネソス半島(モレア)で初期の勝利を収めていた。これを受けてモロジーニは、この地域からオスマン帝国勢力を完全に一掃することを決意する。その目的のため、冬の間にヴェネツィアはドイツ人傭兵の募集を進めた。
陸軍総司令官には、三十年戦争で名を馳せた名将の息子であるスウェーデン系ドイツ人の将軍、オットー・フォン・ケーニヒスマルクが招聘され、ペロポネソスのヴェネツィア陸軍の指揮を託された。
ケレファ要塞の包囲解除
1686年3月初め、ペロポネソスのセラスキエル(オスマン軍総司令官)は12,500人の兵力を率いてマニ地方へ向かい、ケレファ要塞を包囲した。しかし、4,500人のヴェネツィア軍と2,000人のマニ住民による介入により、トルコ軍は撤退を余儀なくされた。
ナヴァリノとメトニの攻略
その間、モロジーニの下には聖ヨハネ騎士団1,000人と教皇派遣の500人が増援として到着していた。一方、新任のセラスキエル、イスマイル・パシャはメッセニア地方に強力な軍勢を集結させていた。モロジーニは直ちに同地へ急行し、艦隊は旧ナヴァリノ付近に歩兵10,000人と騎兵1,000人を上陸させた。
まもなく現地のトルコ守備隊は条約によって城を明け渡した。しかし新ナヴァリノのトルコ人は降伏せず、ヴェネツィア軍は要塞の包囲を開始した。その頃、セラスキエル・イスマイルは包囲された守備隊を救援すべく、歩兵8,000人と騎兵2,000人を率いて現れた。
ケーニヒスマルクはただちに歩兵7,000人と騎兵700人を率いて迎え撃った。経験豊富な将軍はトルコ軍を撃破し、500人の損害を与えた。この戦いの後(1686年6月2日)、包囲されていた守備隊は条約により降伏した。
続いてヴェネツィア軍はメトニへ矛先を向けた。6月25日、短い包囲戦とトルコ側の甚大な損失の末、この要塞都市は降伏した。同時にヴェネツィア軍はキパリシアも占領した。
ナフプリオ攻囲戦
これらの成功を受け、ヴェネツィア軍はナフプリオへと転進した。7月18日、彼らの軍はナフプリオから6km離れたロディ地点に上陸した。直ちにヴェネツィア軍は、当時まだ要塞化されていなかったパラミディの丘を占領した。
ナフプリオの守備隊はムスタファ・パシャ率いる3,000人のトルコ兵だった。ムスタファはセラスキエル・イスマイルに援軍を求める使者を送った。イスマイルは急ぎナフプリオへ向かい、7月20日にアルゴス近郊に陣を張った。同じ夜、彼は300人のイェニチェリで守備隊を強化した。
こうした情勢を受け、モロジーニとケーニヒスマルクはパラミディに攻城砲を設置するとともに、セラスキエル軍への警戒措置を講じた。1686年8月4日、イスマイルは騎兵4,000人と歩兵3,000人をもってヴェネツィア軍へ攻撃を仕掛けた。しかしケーニヒスマルクは待ち構えていた。
戦闘は短時間で決着した。トルコ軍はヴェネツィア軍のドイツ人歩兵が築く崩れぬ戦列に突っ込んでは弾き返された。突撃の勢いを使い果たしたところで反撃を受け、耐えきれずに潰走したのである。
イスマイルはアルゴスのトルコ人を全員収容して街を去った。その頃ナフプリオでは、包囲された守備隊が脱出を試みたが、大きな損害を出して撃退された。
決定的となった8月17日の戦い
8月17日、セラスキエルは10,000人の軍勢を率いて再び現れた。トルコ軍は狂信的な勢いでキリスト教徒軍に攻めかかった。その先鋒は、聖ヨハネ騎士団1,000人、ダルマチア人、教皇領兵からなる小部隊だった。この小部隊は英雄的に戦い、ケーニヒスマルクが増援を率いて駆けつけるまで、トルコ軍の猛攻に耐え抜いた。
3時間に及ぶ激戦の末、トルコ軍は1,400人の死者を出して敗退した。一方、キリスト教徒側の死傷者は350人にとどまった。この戦いの後、ナフプリオに包囲されていたトルコ守備隊は降伏し、8月18日、ヴェネツィア軍はナフプリオに入城した。
敗北の余波
敗北後、セラスキエルはアイギオンまで退き、コリント地峡の防衛に部隊を配置した。しかしトルコ軍の士気は地に落ちていた。それを如実に示したのが、カリタイナで起こったトルコ兵の反乱である。彼らは自らの将校を虐殺し、ペロポネソスから逃亡した。この戦争が最終的な結末を迎えるまで、さらなる多くの戦いが続くことになるのである。