
ビザンツ帝国(東ローマ帝国)が最初に火器を使用したのがいつであるか、正確な時期は明らかになっていない。ただし、1390年、ヨハネス5世とヨハネス7世パレオロゴスによる帝位をめぐる内紛の際に、すでに大砲が用いられていたことを示す記録が残されている。
大砲や初期の火器は、おそらくヴェネツィア人やジェノヴァ人を経由して、西欧からビザンツへともたらされたものと考えられている。こうした武器の運用について詳しい記録が伝わるのは、1453年、首都コンスタンティノープルをめぐる最後の包囲戦のときである。
効果的に使えなかったビザンツの大砲
包囲戦の目撃者であるキオスのレオナルドは、ビザンツ軍には火薬も砲弾も十分になく、大砲を効果的に運用できなかったと報告している。
さらに彼によれば、大型砲は発射時の強烈な反動が城壁を直撃して損傷を与えたため、同じ場所から再び発射することができなかったという。歴史家ラオニコス・カルココンディレスもこの証言に言及し、ビザンツの大砲は約41キログラムの弾体を発射していたと付け加えている。
とはいえ、ビザンツの大砲はオスマン(トルコ)軍の巨砲に比べればはるかに小型であった。カルココンディレスによれば、ビザンツ最大級の大砲は使用中に「破裂」してしまったという。原因は粗雑な造りにあったのか、それとも未熟な砲手の扱いにあったのか、定かではない。
ドゥーカスが描く初期の小火器
歴史家ミカエル・ドゥーカスもまた、初期の「銃」が実戦で見せた威力を生き生きと記録している。
「……その他、小ぶりの玉を5つか10つまとめて撃ち出す射手たちがいた。その玉はポントス産のクルミほどの大きさで、恐るべき貫通力を備えていた。鉄の鎧をまとった者をも打ち砕き、盾ごと肉を突き破ったのである。そればかりか、弾丸は人体を抜けても止まらず、その先に別の者がいれば、さらにその体をも貫いて飛び続けた」
「これは火薬の勢いが弱まり果てるまで続いた。ひとたび撃てば、ふたりや三人を同時に殺すこともできた。トルコ人もまたこの種の武器を使いこなし、むしろビザンツ人以上に巧みに扱っていた」と彼は語っている。
多様な形態が混在した黎明期の火器
当時実際にどんな武器が使われていたのかを特定するのは容易ではない。火器はまだ発展途上にあり、多彩な変種が存在したからだ。小型の大砲に似たもの(2人1組で操作されることもあった)、肩に担いで運ぶ金属製の筒のようなもの、そして最も新しい型として、後世のアルケブス(火縄式小火器)に似たものなどが挙げられる。いずれも、導火線を用いる点火機構で発射された点では共通していた。
ビザンツ人の火器の呼び方
ビザンツ人は火器を「フーネル(漏斗)」「スケヤ」などと呼んだ。歴史家クリトボロスは大砲を「ヘリポレス(都市を奪うもの)」あるいは「投射機械」と表現した。当時の大砲が石弾を発射していたことから「ペトロボレス(石を投げるもの)」と呼ぶ著述家もあれば、遠距離からの発射に着目して「テレボレス(遠くへ投げるもの)」と記した者もいた。
こうした断片的な記録から浮かび上がってくるのは、火器という新兵器の黎明期において、ビザンツ帝国が資材・技術の両面で立ち遅れていたという厳しい現実である。それは、帝国最後の防衛戦に暗い影を落とすこととなった。

