ヨーロッパの歴史

カラマタ事件1946年――ギリシャ内戦前夜の5日間:EAM、右翼組織X、マグガナス一派と「おじいさん」の報告書

カラマタ事件1946年――ギリシャ内戦前夜の5日間:EAM、右翼組織X、マグガナス一派と「おじいさん」の報告書

1946年1月18日から22日にかけて、ペロポネソス半島南部の都市カラマタとその周辺で起こった一連の流血事件は、ギリシャ内戦が正式に始まる前夜の出来事として近代史に刻まれています。この騒乱を記録した公式報告書を作成したのは、後に内戦で第2歩兵師団長を務めたニコラオス・パパドプロス大佐です。本稿ではその報告書をたどりながら、内戦勃発直前のカラマタで何が起きていたのかを検証します。

歴戦の軍人ニコラオス・パパドプロス

1890年生まれのパパドプロスは、バルカン戦争と第一次世界大戦を戦い抜いた歴戦の軍人でした。小アジア遠征では中隊長を務め、1940年には中佐として第28歩兵連隊の指揮を執っています。占領期には中東へ脱出し、第3山岳旅団の副旅団長に任じられました。

解放後は各地の要職を歴任し、内戦では名門第2歩兵師団の師団長として、フロリナの戦いにおけるギリシャ民主軍(DSE)敗北、さらに内戦最終局面の諸戦闘で決定的な役割を果たすことになります。

「おじいさん」がまとめた報告書

通称「おじいさん」と呼ばれたパパドプロスは、1946年1月18日〜22日にカラマタ市内外で起きた騒乱に関する報告書の起草を担いました。政治的な立場からの記述であることは否めませんが、それでも本文書の歴史的価値は失われません。報告書には、エヴァンゲロス・マグガナスをめぐる有名な事件にも触れられています。

ストライキから始まる緊張

報告書によれば、同年1月8日以降、カラマタ労働センター管轄の各部門が相次いでストライキに突入し、公務員も全面的または部分的に参加しました。ストライカーたちは無許可の小規模デモを繰り返し、「人民にパンと油を」「一般恩赦を、X組織(ヒテス)を解散させろ」と叫んだといいます。これらの行動は右派のナショナリズムを強く刺激しました。

カツァロス・カフェ襲撃事件

そんな折、「共産主義者がスパルティ郊外で右派市民6人を殺害した」という情報が入ります。この報せに激昂した右派グループは、1月18日午後8時ごろ、N・カツァロス経営のカフェに押し入って共産主義者、特に出所したばかりの元受刑者を捜し出そうとし、自動火器を発砲。店主カツァロスと農学者アタナシオス・ラファザノスが死亡し、他の客4人が負傷しました。検察当局はただちに捜査に乗り出しています。

抗議デモと挑発的な葬儀

翌19日、親共産主義勢力は労働センター前に集結し、当局の許可なく県庁へ抗議行進を行いました。多人数の委員会が知事宛ての抗議文を提出し、前日の事件の責任は憲兵隊とカラマタ検察官にあると主張しました。

知事と府主教は沈静化を呼び掛ける演説を行いましたが、その一方で反共側の党際委員会メンバーは対立的な調子で語りました。その後、デモ隊の一部は市内を巡回して商店を閉めさせ、X組織(「ヒテス」と呼ばれる右翼民兵)関係とみられる旗を引き下ろしました。法執行機関は全体を通じて抑制的・鎮静的な対応を貫いています。

午後には犠牲者2人の葬儀が営まれましたが、これは共産主義者たちの指揮のもと、従来からある挑発的な形式で執り行われました。葬列は警察指定の経路を進んだものの、沿道では「百倍にして返す」などといった扇動的・挑発的なスローガンが絶えませんでした。

トゥリア村外での新たな殺害

こうした一連の動きにより、右派住民の間には流血事件の切迫感が広がりました。買い出しのためにカラマタを訪れていた農村部の右派住民たちは、帰郷後「カラマタは共産主義者によって悲劇的かつ極めて危険な状態にある」と伝えました。その結果、憤激した農民らは1月19日夜、アテネからカラマタへ向かっていた2人――新聞配達用自動車の添乗員ディオニシオス・カコリディス(アテネ在住)と、カラマタ在住のアタナシオス・デドゥーシス――をトゥリア村外で殺害したのです。

1月20日、武装集団の行動

翌20日は日曜日でした。「カラマタで共産主義者による右派虐殺が準備されている」という印象と、被害者遺族らの煽動を受け、周辺村落の農民たちが市近郊の村々に集結し始めます。当初の目的は、共産主義者の活動を阻止するための介入でした。

しかし、この群衆の怒りを利用したのが悪名高いエヴァンゲロス・マグガナスでした。彼は集まった人々を率いて、次のような行動に出たと報告書は記しています。

  1. 警察署への襲撃:マグガナス自身が率いる約100人の一団は、武装し大半が軍服姿で、午後5時45分ごろカラマタ第1警察署の拘置所を訪れました。ここには普通犯罪で勾留された32人の右派市民(カツァロス・カフェ事件の容疑者3人を含む)が収監されており、一団は彼らの釈放に成功します。看守は反応せず、別途収監されていた18人(大部分が共産主義者)には手を付けませんでした。
  2. 市民の拉致:同じく武装した複数の集団、総勢約600人は、夜更けに市郊各地で男女36人の市民を拘束・拉致し、市外約8キロのクルルト・チャウシ村へ連行しました。逮捕の際、6人がその場で処刑されています。
  3. KKE幹部の処刑:さらに別の一団はトゥリア村の入口で、アテネから自動車でカラマタへ向かう途中だった弁護士でギリシャ共産党(KKE)幹部のコルマンを拘束し、その場で処刑しました。

一方、各所から集まった約3000人の武装農民は状況を誤認し、約700人の囚人が収監されている刑務所や公共機関・商店の警戒にとどまったといいます。

交渉と人質の解放

21日、メッシニア府主教はカラマタ市長とともに、拉致された市民がいるクルルト・チャウシ村へ赴き解放を仲介しようとしましたが、実を結ばないまま戻りました。

同日11時ごろ、トリポリ方面から陸軍部隊がカラマタへ向かっていること、メッシニア・ラコニア両県に戒厳令が敷かれたことが武装集団に伝わると、彼らは人質を連れて急遽村を放棄し、ガルディキ村へ移動しました。その途上、経路を外れた(道を知らなかったか、逃走を図ったものとみられる)人質6人が護送者に射殺されています。

まさにそのような状況の中、同日午後2時ごろカラマタに到着して指揮権を引き継いだのがパパドプロスでした。彼は直ちに知事、検察官、府主教、ペロポネソス高等司令部の警察顧問であるイギリス軍将校コブル、カラマタ司令部のタグリン・アレクシウらと会合を開き、武力衝突を避け、何よりも先に人質の無血解放を目指す方針を確認しました。

そのためにパパドプロスは右派の市民2人を使者として派遣し、「翌日10時までに拉致者を全員解放せよ。さもなければ人質の命を顧みることなく追討する」という最後通牒を伝えます。翌朝、解放が受け入れられたとの連絡があり、実際に22日10時、男性15人と女性9人が解放されました。ただし彼らは表通りではなく裏道を使って入市したため、法執行機関はその帰還に気づかなかったといいます。

22日の朝から、パパドプロスは万一に備えてガルディキ村周辺へ支隊を配置していました。11時になっても解放の情報がないため追討を下令しましたが、正午にイギリス軍のノーブル大尉が「武装集団はすでに人質の一部(15人の男性と9人の女性)を解放して残しており、残りも解放する予定だ」と懇願したため、追撃停止を命じました。この結果、同日夕方、残りの拉致者46人が解放され、トゥリアから自動車でカラマタへ移送されました。

事後処理

パパドプロスは人質の一人から直接話を聞きました。それによれば、上述の6人が殺害された一件のほか、数回にわたる暴行を受けるなどの被害はあったものの、それ以外の虐待はなかったということです。解放された人質たちはそれぞれの家へ送られ、パパドプロスは犯人の捜索と逮捕のため支隊の出動を改めて命じました。

内戦への序曲

カラマタでの5日間は、占領期から続く左派と右派の対立がもはや制御不能の域に達していたことを如実に示す事件でした。報告書は右派将校の視点で書かれているため、記述の解釈には慎重さが必要ですが、1946年当時の地方社会がどのように内戦へと呑み込まれていったのかを生々しく伝える一次資料として、今日でも高い価値を保っています。