デルヴィナキの英雄庭園に刻まれた言葉
「パリンゲネシア(民族再生)の闘争の指導者」――イオアニナ県デルヴィナキの英雄庭園に立つ、軍司令官ハツィミチャリス・ダリアニスの胸像には、そう刻まれている。オスマン帝国の支配下にあった祖国の解放のため、その英雄的な戦いに生涯を捧げた男への、地元の人々の深い敬意の表れだ。
英雄は1775年、当時オスマン帝国に支配されていたエピロス地方ポゴニのデルヴィナキに生まれた。そして1828年5月18日、クレタ島フランコカステロの防衛戦でその最期を迎えた。9年前には、スファキア自治体とポゴニ自治体が姉妹都市提携を結んでいる。これは、闘争の隊長であった彼へ捧げるささやかな敬意の証である。
本名はミカエル・クリストゥ
彼の本名はミカエル・クリストゥ(ミハリス・クリストゥ)。ポゴニ市長のコスタス・カプサリス氏によれば、「ハツィ」の称号は、ヨルダン川まで旅して洗礼を受けたことに由来するという。また「ダリアニス」という名は、当時の武器であるイタリア製の短剣「ダリアーニ」にちなんだものだ。
エピロスの若者はイタリアへ留学したが、後にトリエステでタバコ産業に従事。利益率の高い事業に成功し、大きな富を築き上げた。1816年、アルギロカストロ出身のアレクサンドロスとミカエルのヴァシリウ兄弟によって秘密結社フィリキ・エテリア(友愛社)に入会すると、彼の目に映るのはもっぱら祖国解放への道となった。
全財産を独立戦争に投じる
彼は自らの財産を闘争のために処分・換金した。自己資金でギリシャ初となる騎兵部隊を編成し、さらに16,163グロシアを国庫に寄付している。
1826年には、傭船3隻と義勇兵800人を率いてレバノンへ渡った。オスマン帝国に対するエミール・バシールの蜂起を支援し、陽動作戦として機能させる狙いであった。しかし現地に到着した頃には、エミールの意向はすでに変化しており、彼はやむなくギリシャへ帰還することとなった。
帰国後は、ペロポネソス半島および中央ギリシャにおけるイブラヒム・パシャ軍との戦いに参加し、ゲオルギオス・カライスカキスの麾下で戦った。
クレタ島の革命指揮官へ
1827年、彼はギリシャ非正規騎兵の総司令官の地位を与えられた。続いてクレタ島へ転戦し、兵士500人と騎兵100人を率いて革命を指導することになる。歴史資料によれば、この部隊のうち385人がエピロス出身だったという。
1828年1月、軍司令官はグラムヴーサ島に上陸。当初ここを拠点とし、その後スファキア南東のフランコカステロに野営地を構えた。
ムスタファ・パシャとの対決
キュドニアのムスタファ・パシャは、ハツィミハリスの到着を知るや否や、勅令(フィルマン)をもってスファキア人を威嚇し、兵8,000人、騎兵400騎、重砲を擁してフランコカステロの正面に陣を敷いた。同時にダリアニス宛てにも勅令を送り、10日以内にこの地を去るよう命じた。
これに対しダリアニスは、「自分は神の助けを得て戦い、勝利するためにクレタへ来たのだ」と回答。直ちにフランコカステロ要塞の確保に着手した。スファキア人たちは、少数の兵だけを要塞に残し、主力は山へ登って、敵が要塞を攻撃する際に高地から迎撃すべきだと懇願した。しかし騎兵への自信を持っていたハツィミチャリスは城内にとどまり、要塞から半径約300メートルの範囲に石造りの堡塁を築き始めたのである。
1828年5月18日、壮絶な最期
5月13日、トルコ軍は全兵力をフランコカステロ付近に集結させ、5日後の18日夜明けに攻撃を開始した。戦いは激烈かつ不均衡なものであった。数で勝り、重武装したトルコ軍に対し、守備隊は圧倒的に不利な状況に置かれていた。
一つの堡塁では、ハツィミハリス麾下の約100人の兵士が、キュリアクリス・アルギロカストリティスとともにオスマン軍の手にかかって討たれた。ハツィミチャリスは、残り二つの堡塁の兵を要塞内へ収容するため、騎兵を率いて城外へ打って出た。門前での戦いは凄惨を極めた。英雄の剣は折れ、愛馬は負傷し、四方を包囲された彼はついに斬り殺された。その首級は戦利品としてムスタファ・パシャのもとへ運ばれたという。
350人の英雄たちと遺された記憶
ハツィミチャリス・ダリアニスとともに、祖国の独立のためにクレタ島へ渡り戦った約350人のギリシャ人英雄が、フランコカステロの地に永眠することとなった。
マクリヤンニスは回想録の中で、ハツィミチャリスとその部下たちの勇気と自己犠牲の精神を高く評価している。なお、興味深い伝承として、この戦いにちなんだ「ドロスリテス(露の影)」と呼ばれる幻影の伝説が今も語り継がれている。戦没者の霊が、戦闘記念日の早朝に要塞周辺に現れると言われるものである。
歴史資料によれば、ハツィミチャリス・ダリアニ家のルーツはドロポリ地方のヴリアラティ村とされる。今日もヴリアラティにはダリアニス姓が受け継がれており、一族は高い経済力と教育水準で知られている。
出典:APE-ME(アテネ・マケドニア通信)