ヨーロッパの歴史

もしパレオロゴス皇帝が都で散らなかったなら、1821年はこれほど多くの志士を生み出せただろうか?

もしパレオロゴス皇帝が都で散らなかったなら、1821年はこれほど多くの志士を生み出せただろうか?

大理石の王の伝説

子どもの頃、誰もが「大理石の王」の伝説を学んだものだ。あらゆるギリシャ人の喜びであり誇りであった都(コンスタンティノープル)が、最も野蛮な民の手に屈してから、すでに幾世紀もの歳月が流れている。それでも伝説は死ななかった。死ぬはずがなかったのだ。やがて野蛮人が押し寄せることを知りながらも、数千の敵に対してただひとり立ち向かい続けたパレオロゴス――その記憶そのものが伝説だったのだから。

実は彼より約2000年前、スパルタのレオニダス王も同じ真実を知っていた。テルモピュライで「来たれ、そして取ってみよ(モロン・ラベ)」と叫びながら、民のために身を挺して戦死したのである。

アラマナの橋で、アタナシオス・ディアコスはパレオロゴスの生まれ変わりとならなかっただろうか。わずかな若者たちを率いて、オメル・ヴリョニス麾下の数千の大軍に立ち向かったのである。天使は再び剣を授け、彼をピンドス山へ、アルギロカストロへと遣わしたのではなかったか。そして近年には、苦難に満ちたキプロスで再び姿を現し、裏切られながらも、剣を持たずしてさえ野蛮人の侵攻を食い止めようとしたのではないだろうか。

これこそがパレオロゴスであった。隷属下に置かれたギリシャ人たちに希望と生きる意志、そして光を与えた人物。1821年の独立戦争を生み出したインスピレーションの源泉こそ、ほかならぬ彼だったのだ。

始まりの包囲網

1453年4月5日、諸都市の女王コンスタンティノープルは、オスマン帝国軍による包囲を受け始めた。メフメト2世は数万の兵力と数十門の大砲を擁して攻囲戦を開始したのである。しかし都は持ちこたえた。コンスタンティノス11世パレオロゴスに対する開城の勧告も、何の効果ももたらさなかった。そこでメフメトは最後の総攻撃を決意する。

皇帝は聖体拝領の秘跡を受けた。将軍たち、そして涙を浮かべて皇帝に抱きつき、その手に口づけを捧げた兵士や市民たちとともに。

その直後、皇帝は愛馬にまたがり、夜の闇へと部下たちとともに消えていった。城壁に辿り着くと剣を抜き、一介の兵士として最前線――聖ロマノス門付近、砲撃で崩された城壁を応急修理した「裂け目」と呼ばれる最も危険な防衛地点に陣取ったのである。夜は更け、5月29日の明け方が近づいていた。トルコ軍は猛烈な攻撃を次々と仕掛け、ついに都へと雪崩れ込んだ。

死と伝説の誕生

そのとき、コンスタンティノスは伝説となることを自ら選んだ。「都は陥落した」。恐るべき叫びが響き渡った。「都は落ちたのに、私はまだ生きておるのか!」と王は叫び返し、剣を手に、わずかな忠臣たちを率いて、己にふさわしい栄光の死へと突進していった。

こうしてコンスタンティノスは、フランチェスコ・デ・トレド、テオフィロス・パレオロゴス、ヨハネス・ダルマタとともに敵陣へ斬り込んだ。四対数千。四人は文字通り、大地を敵の死骸で埋め尽くした。「我らは生きて還るか、死ぬかのどちらかだ」とテオフィロス・パレオロゴスは叫び、剣を振るって敵の波に切り込んでいった。

しかし間もなく、皇帝は致命的な一撃を受ける。倒れ込む直前、彼が絞り出せたのはただ一言――「我が首を取るキリスト教徒はもうおらぬのか」だけであった。「王の側近たちは、乱戦の中で彼の姿を見失った。都の陥落を悟った瞬間、死を決意した彼は、人目から消えるように倒れた」と年代記作者たちは記している。ドゥーカスによれば、トルコ人は両頭の鷲で飾られた紫の長靴によって、亡き皇帝の遺体を識別したという。さらに同年代記者は、遺体は剥ぎ取られ、冒涜されたと綴っている。勝利の瞬間でさえ露呈したその卑小さは、彼らの文化の質を如実に物語るものだった。

だが、数え切れない虐殺と略奪、暴虐の限りを尽くし、美しき都を完全に荒廃させたところで、彼らは何ひとつ成し遂げられなかった。闘いの条件など関係ない、ただ自らの文化と歴史が命じるがゆえに、抗わねばならないからこそ抗う――そんなギリシャ人の伝説を、一つの民族の記憶から根絶することに、彼らは成功せず、永遠に成功することはないだろう。

ドゥーカスはこう述べている。「ギリシャ人の手から都をトルコ人に引き渡すことは、あり得なかった。仮にそれが可能であったなら、ギリシャ人は恥辱と羞恥に苛まれながら、いったいどの街を、どの場所を、キリスト教徒のどの都市を歩くことができただろうか」。まさにパレオロゴスのこの犠牲こそが、「大理石の王」の伝説を生んだのである。主の天使が皇帝を大理石へと変えて洞窟に隠し、時が訪れれば再び剣を授けて蘇らせ、トルコ人を「赤林檎」の彼方へ追い払うのだと。

200年前の1821年、私たちの祖先はこれを行動に移した。そして都の陥落直後から、ついに成功を収める日まで、幾世代もの先人たちが挑み続けてきたのである。一部の人々が唱えるような「静かな従属の時代」などではなかった。ギリシャ人にとって隷属の歳月とは、終わりなき戦争の歳月だったのだ。