ヨーロッパの歴史

知られざる英雄――1821年ギリシャ独立戦争で戦ったアフリカ系アメリカ人のフィレレーン

知られざる英雄――1821年ギリシャ独立戦争で戦ったアフリカ系アメリカ人のフィレレーン

アフリカ系アメリカ人も支えたギリシャ独立戦争

1820年代のアメリカを席巻した「ギリシャ熱」、そしてアメリカの親ギリシャ主義(フィレレニズム)がギリシャ革命に果たした貢献については、すでに多くが語られてきました。しかし、あまり知られていないのは、ギリシャ人の闘いがアフリカ系アメリカ人コミュニティからも支援を受けていたこと、さらに実際にギリシャ側で勇敢に戦ったアフリカ系アメリカ人が存在したという事実です。また、ギリシャ革命がアメリカにおける奴隷制廃止運動の基盤となり、「ギリシャ人奴隷」がその闘いを推進する象徴となったことも、ほとんど知られていません。

ジェームズ・ジェイコブ・ウィリアムズ――バルチモア出身のフィレレーン

ジェームズ・ジェイコブ・ウィリアムズ(James Jakob Williams)は、アメリカ合衆国メリーランド州ボルチモア出身のアフリカ系アメリカ人の親ギリシャ主義者です。彼は米海軍の海兵隊員として勤務し、1815年に勃発したアメリカとアルジェリアとの戦争に従軍しました。一連の作戦で勇敢に戦い、抜群の活躍を見せています。アルジェリアでは、彼の資質と勇気を高く評価したアメリカ海軍のスティーブン・ディケーター(Stephen Decatur)提督の指揮下で働きました。作戦終了後、アメリカ艦隊での任期を終えると、ディケーター提督は彼に対し、「奴隷制が廃止された国」ギリシャへ渡ることを勧めたのです。

ギリシャでの戦い

ウィリアムズは1827年1月にギリシャへ到着し、イギリス人フィレレーンであるトーマス・コクラン(Thomas Cochrane)提督の副官に任命されました。彼はコクランが1827年12月にギリシャを離れるまで、あらゆる軍事作戦に同行しました。その後もギリシャに残り、数々の戦闘や海戦に参加しています。実際、何度も命を懸けて敵陣に潜入し、貴重な情報を収集してギリシャ側に伝えたこともありました。

ナフパクトス解放作戦の際、ウィリアムズは砲弾の破片により腕と脚に重傷を負い、ポロスの病院に搬送されました。しかし戦闘の重大な局面では、制御不能となっていたギリシャ船「ソティール(Sotir)号」を取り戻すため、一団のギリシャ人戦士を率いて乗り込みます。さらに彼は自ら砲座の指揮を執り、敵の砲火をわが身に集中させることで、船を拿捕の危機から救ったのです。

この勇敢なアフリカ系アメリカ人のフィレレーンは、ギリシャ人の闘いに自らの命を捧げました。彼は1829年、自由なギリシャで自由な人間として最期の日々を過ごし、この地で息を引き取りました。ヘレニズム・フィレレニズム協会(EEF)は、自由なギリシャで自由人として生きたウィリアムズを顕彰しています。

『フリーダムズ・ジャーナル』が見たギリシャ革命

当時のアメリカ、とりわけアフリカ系アメリカ人社会の空気はどのようなものだったのでしょうか。それを物語るのが、1827年3月にニューヨークで創刊された、アメリカ初の自由黒人新聞『フリーダムズ・ジャーナル(Freedom's Journal)』に掲載された記事群です。奴隷制廃止への闘いを主要な関心としていたこの新聞は、ギリシャ革命を「奴隷たちによる暴君への闘い」と捉え、ギリシャからのニュースを、ハイチ、アフリカ、西インド諸島からの報道と同等の比重で扱いました。同紙は1827年12月21日には、ナヴァリノ海戦に関する報道を大きな満足をもって掲載しています。

興味深いことに、この新聞は、1826年に「暴君」マフムト2世によって虐殺されたヤニーチャリ(イェニチェリ)たちを、理由あって奴隷と見なし同情を寄せていました。ハレムの女性たちについても、同じく奴隷とみなしていたのです。さらに同紙は「ギリシャの歌」「ギリシャへ」「ヤニーチャリの歌」といった親ギリシャ主義の詩も発表しています。これらの詩には「自由か死か」というスローガンが繰り返し歌われ、奴隷制の典型的な象徴である「鎖」のイメージが描かれています。以下はその一部を意訳したものです。

「ギリシャにて」(F.J. 1827年12月10日)

喜べ、レオニダスの大地よ。[...]
臆病になるな、マラトンの英雄たちの子孫よ。
祖先が眠る地で倒れるほうがましだ、
恐るべきオスマンの鎖を引きずるよりも。[...]

「ギリシャの歌」(F.J. 1827年9月7日)

兵士よ、勇ましい馬に鞍を置け。
走れ、走れ、戦火の中へ。
そこで血を流して死ぬほうがましだ、
暴君の戦車を引くよりも。[...]
打て! 打ち払え! 鎖を断つ一撃は無駄にはならぬことを忘れるな。[...]
カライスカキスが指し示すその場所へ!
三日月が翻るところへ、[...]

「ヤニーチャリの歌」(F.J. 1827年4月5日)

暴君が勝つのはほんの一時だけだ、
だが彼もその追随者たちも、我々の前に倒れるだろう。
血の中でセリムを玉座から転落させたあの運命は、
疲れ果てたマフムトよ、お前にも訪れる、我々は誓う。[...]
気をつけろ、残酷なマフムトよ! お前の時が来た[...]。

「ギリシャ人奴隷」――奴隷制廃止運動の中心シンボル

アメリカ各地の「ヘラス委員会」による親ギリシャ活動を伝える記事の切り抜きも残されています。冒頭の画像では、12歳の少年が「売上を飢えているギリシャ人たちに届けてほしい」と願って、自分の時計をピッツバーグの親ギリシャ委員会に寄付する様子が記録されています(『フリーダムズ・ジャーナル』より)。地中海の奴隷市場で日々売買される何十万人ものギリシャ人奴隷の悲劇的な運命は、19世紀前半のアメリカ社会に大きな衝撃を与えました。この恐怖を目の当たりにしたアメリカ人義勇兵たち――サミュエル・グリドリー・ハウ博士(Dr. Samuel Gridley Howe)、ジョナサン・ペカム・ミラー(Jonathan Pecham Miller)など――は、後にアメリカにおける黒人奴隷制廃止運動の指導的人物となっていきます。そしてこの闘いには、中心的なシンボルがありました。それは「ギリシャ人奴隷」です。

ハイラム・パワーズの傑作「ギリシャ人奴隷」

「ギリシャ人奴隷(The Greek Slave)」は、偉大なアメリカの彫刻家ハイラム・パワーズ(Hiram Powers)が1844年に制作した有名な彫刻で、プサラ島出身の少女の物語に基づいています。ガリファリア・モハルビ(Garifalia Mohalvi、1817年~1830年)はプサラの出身で、両親はキオス島の虐殺の際に殺され、幼いガリファリアはトルコ人によって奴隷として売られました。ところが偶然にも、彼女はスミルナ(現イズミル)でアメリカ領事ジョセフ・ラングストン(Joseph Langston)によって発見されます。幾多の試みの末に彼女の解放に成功したラングストンは、1827年、彼女をボストンへ送りました。

ガリファリアの数奇な運命とその美しさに触発されたパワーズは、1844年、19世紀の世界彫刻史に残る傑作「ギリシャ人奴隷」を生み出しました。今日、原作の像はブルックリン美術館に所蔵されており、複製がアテネのフィレレニズム博物館(www.phmus.org)に展示されています。この「ギリシャ人奴隷」の像は、アメリカにおける奴隷制廃止の闘争とキャンペーンの中心的な象徴となったのです。

知られざる英雄――1821年ギリシャ独立戦争で戦ったアフリカ系アメリカ人のフィレレーン

出典:eefshp